本車は43系の制御車クハ58からクハ47に編入された車両です。戦後横須賀線用として上京するものの、すぐモハ32の地方転出に伴うクハ不足で、道連れとなって身延線に転出します。その後同じ仲間は、過半数が、飯田線の4両貫通の快速運用のため貫通路付きのクハが必要ということで、1957〜8年に飯田線に移っていきますが、本車はそのまま居残り、1957年の更新修繕IIの際に、幌も撤去され関東顔になってずっと身延線で活躍しました。またその際、半室運転台だったものを仕切りで区切って全室化されています。
本車はなぜか前面のサボ受けがありません。身延線では1970年頃まで前面サボを使っていましたし、身延線の前面サボ廃止後も、韮崎-塩山ローカル運用では前面サボを使っていたので、なぜ本車だけなかったのかは謎です。ほぼ中間車専用として使われていた51850代にサボ受けがなかったのは当然でしたが...
本車の車歴です。
1934.1.15 田中車両製造 (クハ58021) 偶数向 → 1934.7.20 使用開始 大ミハ → 1937.11.6 大アカ → 1938.9.30 大ミハ → 1945.1 座席撤去 → 1948.10 座席整備 → 1950.3.29 更新修繕I 吹田工 → 1950.9.26 東チタ → 1951.3.9 静フシ → 1952.2.10 便所取付 → 1953.6.1 改番 (クハ47112) → 1957.11.30 更新修繕II 豊川分工 → 1969.4.11 静ヌマ → 1981.8.22 廃車 (静ヌマ) ※最終全検 54(1979)-7 大船工
本車は、1934年に東海道・山陽線京阪神間用として製造されました。クハ58はいずれも偶数向きに統一されていました。しかし1937年に明石電車区が発足すると、一時そちらに移ります。明石電車区発足で宮原区のセミクロスシート車は一斉に移転しました。おそらく本車の場合は流電の投入で急電運用から外れた2扉車ということで一時明石に「左遷」されたものと思われます。しかし翌年宮原に復帰します。戦時中は4扉化を逃れたものの、座席撤去を受けます。戦後以降の流れはすでに述べた通りです。なお既に別のところでも述べていますが、身延線転出で静鉄の方針として制御車は奇数向き (上り方) に揃えることとなり、方向転換しています。
なお、客室内は、クハ47のご多分に漏れずニス塗りが維持されていました。
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