省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

横須賀線から飯田線経由で身延線に行った クハ47055 (蔵出し画像)

 本車は、クハ47051 (改造当初は47011) 、47053 (同47012)と並んで、クロスシートだった数少ない改造クハ47の1輌です。改造クハ47の多くは連合軍専用車を経たため、多くはロングシートでした。

クハ47055 (静ヌマ) 1977.5 富士電車区

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クハ47055 (静ヌマ) 1981 富士駅

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クハ47055 (静ヌマ) 1980.12 富士電車区

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クハ47055 (静ヌマ) 1980.3 富士電車区

 乗務員室扉の形状が左右で異なっています。

本車の車歴です。

日本車輛製造 (サハ48007) → 1931.1.13 使用開始 東チタ → 1935.7下旬 便所設置 大井工 → (1947.3現在 東チタ) → 1952.2.2 改造 豊川分工 (クハ47013) 静トヨ → 1954.8 静フシ → 1957 更新修繕II 豊川分工 → 1959.12.22 改番 (クハ47055) → 1969.4.11 静ヌマ → 1981.6.20 廃車 (静ヌマ)

 本車は、1930年度に横須賀線用として日本車輛で製造されました。横須賀線は1925年7月に電化されて以来、電機が牽引する列車で運行されましたが、1930年3月から電車化されました。ただ当初はモハ30, 31等中央線や京浜線から捻出された車両で運行されていたようです。同年中に横須賀線専用の当時としては初の本格的長距離電車として32系電車が製造開始され、1930~32年度に掛けて置き換えられました。本車はその1両のサハ48007として製造されました。

 1935年には長距離なので便所がなくて不便との声を受けて便所設置工事が行われ、戦後、70系投入まで横須賀線で活躍しましたが、モハ32の地方転出を受けて不足する制御車を補充するためクハ化されました。本車が転出する頃は、身延線に行ったモハ32の第1陣(16両)の転出が終わり、第2陣としてモハ32(12両)とともに豊橋区に行ったようです。

 しかし、1954年、本車は一旦豊橋に行ったクハ47065 とともに、クハ18と交換で富士区に移籍します。なお、053も本車と同様一旦豊橋に行った可能性がありますが、はっきりしません。一方伊東からクハ47114, 116もやってきて、これにより、富士区の制御車は20mのクハ47にすっきりと統一されるとともに、豊橋区は、定員の少ないクハユニ56を除いては、17m車 (クハ16, 18) に統一されます。当時は、東海道本線ローカル運用も持ち、静岡運転所も未開設だったことから、富士区が静鉄内で最も格の高い電車車両基地だったようです。電車区を名乗る車両基地としても静鉄唯一でした。なお、のちにクハ47114, 116 は、流電などが入ってきて飯田線に快速用4両貫通運用ができたとき (1958年) に、豊橋区に移動します。ちなみに、一時制御車が20mに揃った富士区でしたが、1958年に担当していた東海道・静岡ローカル運用の浜松-三島間拡大による運用増を受け、身延線用として首都圏からクハ16の転入を受けて、制御車20m車統一体制は崩れます。

 但し、本車は後から身延線に移ったせいか身延線快速運用には充当されなかったようで、列車種別表示サボが設置されていません。以下のページにある47055の1960年代の写真にも列車種別表示器がありません。

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 その後1957年に浜松工場豊川分工場で更新修繕IIを受け上記写真のような姿になり(雨樋曲線化, 運転台窓Hゴム化等)、1959年車番整理で再度改番されますが、身延線を離れることなく、1981年の115系化まで活躍しました。なお本車は、新性能化の際、訓練用115系を留置する余地を明けるため、運用離脱第1陣として1981.6.12に富士区を離れて浜松工場に直送され、早々に廃車になってしまいました。

 本車も他のクハ47同様最後まで客室内のニス塗りが維持されていました。

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