今回掲載する写真はクモハユニ44803です。おそらく身延線にいた旧形国電の中でも、最も人気のあった車両の一両かと思います。身延線にはクモハユニ44が4輌いましたが、本車は大糸線を経由して一番最後に身延線にやってきた車輌です。このため他のクモハユニ44は1956年度、クモハ14とほぼ同時期に低屋根改造を受けたため、全面的に低屋根になっていますが、本車は、1968年9月に後位の一部のみ低屋根化し、パンタグラフを後ろに移設しています。
それ以外の本車の特徴は、低屋根化およびグローブベンチレータへの交換を除いては、原形の特徴を色濃く残していた点です。ペイントで塗りつぶされていますが、側面のオリジナルの行き先方向幕表示器が残っています。これが残っていたのは、身延線では本車とクモハ51800だけでした。また前面の運行灯も原形のままですが、関西では原形のまま残されているケースは結構ありましたが、関東の旧形国電では稀なことでした。
また、他のクモハユニ44は、偶数向きということで、更新修繕を兼ねた低屋根化改造の際に、電気側と空気側の機器配置を転換していますが、本車は以下に見えるように原形通りに残っていました。
2-4位側が、電気になっていますが、これは原形通りです。
空気側です。こちらは上り636M富士行です。もう夕方でした。
後ろはクハ55440でした。
空気側ですが、抵抗器が増設されています。
連結面の樋が原形の丸樋のままです。ちなみに後ろに写っているイトーヨーカドーは、この年に開店したようですが、2010年に閉店したようです。
運行番号表示のところに623とありますが、おそらく624Mで富士来て、これから富士電車区に向かうところだと思います。前日に623Mで出区しているので、そのままになっているのではないかと思います。
旧形国電末期、新しく入った115系と並んでいます。この年 8/4以降は、クモハユニ44が入る運用のみが旧形国電の運用として残されました。
屋根部分です。屋根前部のステップ(?)の右側がやや中央によって取り付けられているのが分かります。富士駅の3番線ホームに入っていますが、これは沼津機関区での交番・特別仕業検査のための回送です。運用番号が2と出ていますが、沼津区行く運用番号は1でした。
そのクモハユニ44803を追いかけて沼津機関区を訪問しました。洗浄線に入って清掃中のクモハユニ44です。
客室内です。郵便室側を望んでいます。つかみ棒は他車と異なり白で塗られていました。おそらくステンレス製に交換されず、原形の鉄のつかみ棒がそのまま維持されていたものと思われます。
上と同様ですが、郵便室のドアが閉まっています。ご覧のように背もたれにはモケットが張られていませんでした。戦前型旧型国電は戦時中にいったん座席撤去が行われているケースが多いですが、本車は省線電車区間の中では特別扱いされた横須賀線用だったので、ひょっとすると座席も原形のままかもしれません。網棚も、網ではなく板張りでした。
客室内、貫通路側を望みます。以前、クモハ51800のところで紹介した室内写真同様、本車も、おそらくガーランドベンチレータ時代から残る、天井両脇の通風孔がそのまま残っています。
さらに、貫通路扉は原形の木製です。戦前、関東地区の電車では横須賀線車両が唯一貫通路を客用に使って、引き戸で、幌も備えていました。これは横須賀線が中長距離路線という位置づけで、トイレを設置していた車両もあったということが大きいようです。しかし他線区の電車は、貫通路扉はあっても乗務員用であり、幌はなく、非運転台側も含め (客が利用することを想定しない) 開き戸だったようです。モハ63が登場当初貫通路が開き戸で、しかも普段は施錠されていたため、桜木町事故で多くの犠牲者を出したことが知られていますが、横須賀線以外の他の電車も同様だったようです。
桜木町事件以降の更新修繕で、事故時の乗客の逃げ道を確保する目的で、3-4位側の貫通路扉は乗客が利用することを想定した引き戸に改造され、幌も備えられました。従って横須賀線以外の関東の車両で原形の貫通路扉が残っているはずはありません。また引き戸だった元横須賀線車でも、関東もしくは豊川分工で更新修繕を受けた車輛は、開き戸改修車に準じて、プレスドアに交換されていたと思われます。
その意味で、関東向きに製造された電車として例外的に原形の貫通路扉が残っていた本車は、極めて貴重な存在でした。関東車では唯一の存在であった可能性があります。
外観も原形の色が濃いですが、内部もかなり原形をとどめていることが分かります。さすがに明かりは蛍光灯に変えられていますが...
こちらは荷物室から乗務員室を望んでいます。ビネガーシンドロームが出てフィルムが荒れています。
荷物室のカラー写真です。
こちらは郵便室の運転台側です。状差しが見えます。
こちらは郵便室の客室側です。小包の仕分け棚が見られます。郵便室に状差しや小包の仕分け棚があるということは、郵便室とは単に郵便物を置いて輸送する場所ではなかったということです。つまり郵便局員が乗り込んで、郵便局の業務を行っていたわけです。郵便室では葉書、書状、小包の仕分け業務や、消印を押すといった業務も並行して行われていました。つまり走る郵便局だったのです。幹線ではわかりませんが、飯田線や身延線といったローカル路線では、駅構内にあるポストから郵便物を駅員が回収し、そのまま郵便車に乗せて収集するということも行われていました。だから駅のポストに投函すると、より早く郵便物が到着するということもあったのです。
本車の車歴です。
1935.3.28 汽車会社東京支店製造 (モハユニ44003) 1935.5.8 使用開始 東チタ → 1950.7.13 長キマ → 1959.6.1 改番 (クモハユニ44003) → 1959.12.22 改番 (クモハユニ44000) → 1968.8.23 静フシ → 1968.9.30 改造 浜松工 (44803) → 1969.4.11 静ヌマ → 1982.2.26 廃車 (静ヌマ)
本車は1934年度に汽車会社東京支店で横須賀線用にモハユニ44003として製造されました。1947年3月には横須賀線用として使用されていましたが、1950年に大糸線に44004と共に転じます*1。1950年にモユニ81の田町区への配備で北松本に転じたものと思われます。同時に移動した44004 (のち44802) も1950年に長野工場で更新修繕を受けています。なお現車には更新修繕の銘板がなく、製造時の銘板のみがありましたが、44004と同様おそらく長野工場で1950年ごろ更新修繕を受けたものと思われます。本車が関東の車としては例外的にかなりの程度原形をとどめていたのは長野工場で更新修繕を施行されたためである可能性が高いです。
その後、1959年の改番でクモハユニ44003を名乗りますが、身延線に転じた3両が800代を名乗ったことで、44000に改番されます。しかし1968年、クモユニ81003が転じてきて、本車は僚車がいた身延線に行き低屋根化されます。しかし、後から施行されたため、他車とは異なる形態になりました。また既述のように床下機器の配置転換も行われていません。
横須賀線で15年、大糸線で18年、そして身延線で13年間を過ごしました。
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ところで、ここの最後に掲げた写真は、オリジナルが非常に真っ黄色に黄変していました。もともと黄色く写っていたのではないかと思われるほどです。RGB分解を掛けると、Bチャンネルの黄変部分が真っ黒になっています。単純にBチャンネル再建法を適用して補正できる程度を超えていましたので、かなり苦労して補正しましたが、後日この画像の補正法についても、書きたいと思います。