旧形国電末期の身延線には半流のクモハは多数いましたが、クハは3両しかおらず、いずれも関西・京阪神緩行線向けクハ55を編入したクハ68でした。戦時体制でなければ、本来クハ68として生産されるべき車輌だったと言えます。本車は68103と同様運転台左窓が2段のまま残っていたものの関西型通風器が撤去されていたので、容易に判別がつきます。
本車の車歴です。
1940.12.18 川崎車両製造 (クハ55077 奇数向き) → 1941.2.24 使用開始 大ミハ → 1945.1.17 座席撤去 → 1947.3.11 座席整備 → 1953.6.1 改番 (クハ68095) → 1956.3.1 大タツ → 1958.6.24 更新修繕I 吹田工 → 1962.9.15 大アカ → 1969.9.12 静ママ → 1970.2.20 静ヌマ → 1981.9.12 廃車 (静ヌマ)
本車は京阪神緩行線向けのクハ55077として製造されました。それまでは、大阪向けクハ55は淀川電車区に配備されていましたが、戦時体制が本格化する中、この頃から京阪神緩行線にもロングシート車が新製配備されるようになりました。もっとも1941年から宮原区は、1940年のガソリンカー焼損事故(死者数が正確に記録された、連絡船を除く日本の鉄道事故としては最悪の事故)を起こして急遽電化された西成線も担当するようになりますので、それを兼ねたのかもしれません。さらに戦争末期には座席撤去を受け、戦後復興の中で座席が再整備されます。京阪神緩行線のクロスシート復活の方針は1951年に決まったようですので、おそらくこの時点ではロングシートで整備され、51年から改番までの間に再度クロスシート化改造が行われたものと思われますが、手元にはその時期に関する資料がなく、不明です。1953年の形式番号整理時に、クハ68に編入されました。1956年に宮原区が手狭になり高槻電車区が開設されると、そちらに移り、さらに1962年には宮原区153系投入で高槻区には宮原より80系が移動してきて、クロスシート車の大半は明石区に移動します。そして1969年には大阪万博を控え103系の投入が始まると、本車は飯田線・伊那松島区に転出します。しかし、トイレがなかったことが不便だったのか間もなくトイレ付きのクハ16471と交換の形で身延線に移動します。これにより身延線から17m車の制御車は、電動車(クモハ14)より一足早く一掃されました。因みに余談ですが。身延線は1954年頃はクモハユニを除いた電動車は17m、制御車20mで揃っていましたが、東海道線静岡ローカル運用増で首都圏から17mの制御車が流入してきて、長らく20m, 17m制御車混在状態が続いていました。これでようやく1954年頃の体制に戻った形です。ただそれもつかの間、1970年の夏に17mのクモハ14は一掃されてしまいます。
本車は、その後身延線旧形国電終焉まで身延線で活躍することになります。身延線のクハ68は全車トイレなしでしたので、基本はクモハユニと組む1~3番運用もしくは、サハ45やクモハ51850代と組んで4両運用である10番台運用に主として使われたものと思われます。
なお、関西仕様で製造されたクモハ51やクロハ59を改造したクハ68には客用扉脇の幕板に関西急電用の列車種別サボ受けがありますが、本車および093にはありません。おそらく当初はあったはずですが... と思って探してみると以下のような写真がありました。
鉄道友の会埼玉サークル 旧形国電40系車両選集
http://tetosa1970.g1.xrea.com/kyuugata40gata.pdf
この中で戦後復活したモハ70で構成された関西急電の先頭に元クハ55のクハ68が写っている写真(クハ68078)がありますが、見ると客室扉の横に行先表示サボ受けが設置されています。どうもこのサボ受けが設置された車両は、場所が被る列車種別サボ受けを撤去したようです。
またその下に、先日身延線での写真をアップしたクハ68093が出ていますが、列車種別サボ受けがはっきり認められます。
本車の場合も、行先サボ受けを設置したためなのか、それともその後の更新修繕で撤去されたのか分かりませんが、当初は列車種別サボ受けがあったものと思われます。
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