省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

身延線のクハ68093 (蔵出し画像)

 身延線では飯田線と異なりオリジナルのクハ68は1両もおらず、すべて改造編入車のみでした。そもそもクハと言えばクハ47が最大勢力であり、それ以外の車種は補完的な勢力でしたので、そもそもあまり輌数がいませんでした。

 その中で、半流のクハ68と言えばすべてクハ55から編入された車両でした。こちらに掲げる写真は、その中の最も若番であるクハ68093です。この車両はトイレなしでした。

クハ68093 (静ヌマ) 1981.5 富士電車区

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クハ68093 (静ヌマ) 1981.6 身延駅

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クハ68093 (静ヌマ) 1981.6 甲府駅

 運転台左側窓を見ると632という番号が見えますが、これは甲府発14:00頃の632M富士行として出発するところのようです。これはMcTcの31+26運用による4両編成の列車でした。ということはトイレなしクハもMcTc運用に入れていたということですね。上の写真はその後富士に向かう途中身延駅で撮ったようです。

 甲府駅身延線ホームは、2つ番線があったのは現在と同じですが、位置が全く異なっています。また電留線も何本かありました。以下のページに当時の甲府駅の線路配置図を公開されている方がいらっしゃいました。

senrohaisenzu.cocolog-nifty.com ブログでは1971年3月とありますが、1980年頃も変わっていませんでした。大きく変わったのは民営化されてからだと思います。国鉄時代は国の資産ということで固定資産税が掛かりませんでしたが、民営化されてからは鉄道施設を余計に持っているとそれに固定資産税が掛かってきます。身延線は中央線と分離してJR東海に所属しました。それもあってホームの位置も変え、施設も簡素化し、電留線なども、南甲府駅の施設を活用することにして整理し、甲府には最小限の施設しか持たないようになりました。左側は民家のようですが、現在は駐輪場となっています。

 以前以下のページに掲げた運用表では、20~30番台運用にはトイレなしクハは入れないように配慮していましたが、写真を撮ったときは末期で、まだ新性能車は運用に入っていなかったものの、電車区内への留置が始まり、旧形は一部疎開が始まるなど車両に余裕がなくなっていたせいかもしれません。

yasuo-ssi.hatenablog.com

では、本車の車歴です。

1940.12.18 川崎車両製造 (クハ55075) → 1941.2.18 大ミハ → 1944.12.14 座席撤去 → 1948.12.5 座席整備 → 1953.6.1 改番 (クハ68093) → 1956.3.1 大タツ → 1958. 7.31 更新修繕I 吹田工 → 1962.9.15 大アカ  → 1966.12.14 静フシ → 1969.4.11 静ヌマ → 1982.1.21 廃車 (静ヌマ)

 本車は、関西向きのクハ55として1940年に川崎車輌で製造されました。準戦時設計になっていたはずです。しかもいきなりロングシートのクハ55が宮原区に配属されていますが、通常では考えられませんので、もはや戦時体制だったと言えます。1948年に座席整備を受けています。さらに1951年から京阪神緩行線セミクロスシート車が復活されますので、この時にセミクロス化されたものと思われます。1953年に正式にクハ68に編入され、そのまま結局26年間京阪神緩行線で活躍しますが、やや早く1966年に身延線に転出し、最後の15年間を過ごしました。

 なお、私の写真では1-3位側が撮れていませんが、他の方の写真を拝見すると、1-3位側の客用扉の形状は以下のようです。つまり2-4位側と対称だったということです。

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 また、やはりカラーで撮られた方の写真を見ると、室内はモスグリーンのペイント塗潰しだったようです。