省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

身延線 クモハ51852 (蔵出し画像)

 本車は元横須賀線で使われていたクモハ43で、横須賀線末期に混雑に対応するために3扉化改造されクモハ51に編入された車輌です。身延線入線にあたって低屋根化され、850番代の番号を与えらました。 

 本車は前面に幌を備えていたため、主に身延線10〜18番運用である4輌編成の中間に挟まれて使われていました。ちなみに、身延線旧形国電末期に前面に幌のあった制御電動車は、クモハ51802, 850, 852の3両のみで、そのうち半室運転台だった850, 852が主に中間車代用として使用され、サハ45008, 012の次位に連結されていました。下記の写真はその様に運用されていたときの典型的な姿です。従ってめったに前面が出ている姿を見ることはできませんでした。

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クモハ51852 (静ヌマ) 1981 富士駅

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クモハ51852 (静ヌマ) 1977.9 富士電車区

 下の写真は珍しくサハ45の次位に連結されていなかった姿です。幌の前部が見えています。ただおそらく4連の10番代運用についていたと思います。

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クモハ51852 (静ヌマ) 1981.7 富士駅

クモハ51852 (静ヌマ) 1976.4 富士駅

 以下は富士電車区にてめったに見ることのできない前面を見せていた時の写真です。本車の特徴 (51850とも共通しますが) として、幌枠がオリジナルのままだった点が挙げられます。これは、戦後移った横須賀線でも、オリジナルと同様、両支持タイプの幌が使われたため、可能でした。また、中間で使われていたので、前面に行き先サボ受けがありません。しかしめったに前面に出ることはない運転台なのにしっかりデフロスターが取り付けられていました。なお、身延線では無人駅から乗車した乗客に対して車掌が料金収受業務を行っていたので頻繁に編成内を往復していました。そのためこの中間に挟まれた運転台を使ってドア開閉を行うことがよく見られました。その意味では、モハ62、クハ66のアコモ改善車のTcMMTc編成では結構不便だったのではないでしょうか。身延線115系投入時には、McMTcTcで、しかもTcTcが背向かいに連結されるという変な編成があったのも、いずれ3輌編成化を見据えていただけでなく、中間に運転台があると便利というところから来ていたのではないかと思います。

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クモハ51852 (静ヌマ) 1980.3 富士電車区

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クモハ51852 (静ヌマ) 1980.3 富士電車区

 障害物があってあまりお見せするような写真ではありませんが、1-3位側の資料的な意味でお見せします。元々関西の偶数向きモハ43014として製造されましたので、1-3位側が電気側になっているのはオリジナルと同じかと思います。しかし関西から直接来た、元々の関西向け偶数車と電気側の機器配置が異なっています。電気側に関しては、豊川分工場での更新修繕で抵抗器と制御装置の位置が関東の偶数車標準に改修された可能性が高いと思います。

 下は、クモハ51852の室内です。半室運転台が残されていたのが確認できます。これはもっぱら中間車として使われていたためです。なお、内部はペイント塗りに変えられていました。北松本に行ったクモハ43800代もすべてかどうかわかりませんがペイント塗になっていた車があったと思います。

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クモハ51852 (静ヌマ) 1977.9

本車の車歴です。

1934.2.25 梅鉢鐵工所製作 (モハ43014) [偶数向き]→ 1934.6.25 使用開始 (大ミハ) → 1948.11.23 座席整備 → 1950.1.31 更新修繕I 吹田工 → 1950.6.26 東チタ  → 1955.7.12更新修繕II 豊川分工 → 1960.4.20 東フナ → 1963.11.1 改造 大船工 (クモハ51204)  → 1965.2.11 長キマ (大糸南線管理所) → 1966.9.1 静トヨ →  1967.5.13 改造 (クモハ51852) 静フシ → 1969.4.11 静ヌマ → 1982.2.26 廃車 (静ヌマ)

 本車は、1934年梅鉢鉄工所(→のち帝国車輌→東急車輛総合車両製作所)で、京阪神間向けのモハ43014として製造されました。戦時中は4扉化改造をなんとか逃れますが、1950年に、関東の元モハ51と交換で横須賀線用として上京します。その後、1959年2月1日のダイヤ改正で、横須賀線では偶数のモハ43 (53)のみ残すという方針になって*1、下り向き偶数車だった本車は引き続き横須賀線用として、旧形国電撤退まで使われました。これは横須賀線は本編成、付属編成共に6両に統一されるとともに、付属編成は日中、4両とMcTcの2両に分割し、このMcTcを久里浜小運転用に使うということになったためです。この時Mcは下り寄り(偶数)に統一することになりました。その際、付属編成は、下り←TcMTsMMcTcで、朝夕は中間に入っているMcが久里浜小運転では先頭に立ちMcTcで使われ、残りのTcMTsMは昼寝をしていたようです。それ以外に、Mcが下り先頭に立った、McTTsMMTc編成もあったようです。さらに、1963年には混雑の激化に伴い3扉化改造され、クモハ51204となります。

 そして、横須賀線113系化で、本車は1965年一旦大糸線に転属します。しかし翌年飯田線に移り、ここも1年たたずに今度は身延線に移って低屋根化されます。なおデフロスターがしっかり装備されていたのは、大糸・飯田線時代の遺産でしょう。ここで64~65年に横須賀線から移ってきた元サロのサハ45と再会し、その相棒として15年間走り続けました。クモハ43800やクモハ51850代が身延線に移ってくる前は、身延線のMcはクモハ14等非貫通車が大半でしたのでサハ45は身延線転入当初持て余されたのではないかという気もしますが... どうだったのでしょう。

 京阪神間16年、横須賀線15年、身延線14年とほぼ1/3ずつ過ごしました。ともあれ大都市圏の過酷な通勤輸送を第1線で31年間の長きに渡り務め通したことになります。

 

 

*1:以下のページの記述参照。

drfc-ob.com