本車はもともと、43系のクロハ59として製造されたものの、戦時中に3扉化されクハ68に編入され、さらに座席撤去を受けクハ55に編入、戦後座席整備を経てクハ68に再び編入されたグループの1両です。結局旧クロハ59のうち2扉で残った車両は1両もありませんでした。
ご覧のように身延線では数少ない幌が装備されたクハでしたが、同じ幌を装備しほぼ中間車専用として使われたクモハ51850代とは異なり、ご覧のように結構先頭に出ることも多かったです。あるいは、トイレがなかったので、中に挟むよりは端に寄せたほうが良かったという判断だったのでしょうか。あるいは51850代は、サハ45と連結することが多く、他に幌のある電動車は半流の51802しかなかったので、あまりこだわらなくても良いという判断だったのでしょうか。
なお、幌枠はオリジナルではなく、厚みのあるタイプでしたが、これは戦後関西の国電の幌枠がオリジナルの両支持タイプから片支持タイプに変更されたためと思われます。
この車輌はクハ68としては珍しく客室扉横幕板上部のサボ受けが残っていました。
窓から垣間見えるシートの背もたれから判断するに、室内はニス塗りが維持されていました。
本車の車歴です。
1934.3.31 川崎車両製造 (クロハ59014 奇数向き) 大ミハ → 1941.12.27 改造 吹田工 (クハ68034 初代) → 1944.7.2 座席撤去 & 改番 (クハ55148) → 1948.12.3 座席整備 → 1953.6.1 改番 (クハ68019 II代) → 1956.3.1 大タツ → 1956.7.14 更新修繕I 吹田工 → 1971.2.2 静トヨ → 1973.3.17 静ヌマ → 1981.12.19 廃車 (静ヌマ)
本車は1934年に関西急電のクロハとして製造されましたが、戦時中の2等車の廃止と共に3扉化されクハ68に編入されます。しかしさらに座席撤去を受けクハ55となり、戦後座席復活の後、再びクハ68に編入されます。しかし元の番号とは異なる番号が振られました。36年間京阪神間を走り続けた後、飯田線に転じますが、その2年後、流電旧サロハを制御車化した非貫通のクハ47と交換の形で身延線に転じます。1973.3に幌付きのクハ68を中央西線・篠ノ井線ローカル用として北松本に取られてしまいますので、4両貫通編成用の車輛が不足します。その穴埋めとして非貫通のクハ47と交換したのではないかと思います。また本車はトイレなしだったので、飯田線側ではトイレ付きのクハと交換してほしいというのもあったかもしれません。しかし、アコモ改造車62系の配置とともに、1975年3月に幌付きのクモハ43を北松本に取られて以降は、そもそも幌のついた電動車が少なくなってしまいましたので、4両貫通編成の中間車として使われる機会も少なくなったのではないかと思います。結局身延線に在籍したのは8年間でした。