こちらは関東生まれのクモハ51818、元51018だった車両です。本車はHゴム化された窓が最小限で、かつ3-4位連結面の樋も丸樋のまま維持されたことが特徴です。但し、客室内はモスグリーンのペイント塗潰しになっていました。
客用扉は桟ありプレスドアでしたが、4位側の扉のみ桟なしのプレスドアでした。
こちらの写真からは連結面側の樋が丸樋だったことが確認されます。
本車の車歴です。
1937.3.15※ 汽車会社東京支店製造 (モハ51018 偶数向き) 東ミツ → 1944.3.17 改造 大井工 (モハ41073) → 1950.10.16 大ミハ → 1951.4.30 座席整備 吹田工 → 1952.2.12 改造 吹田工 (モハ51018) → 1954.4.22 更新修繕 吹田工 → 1956.3.1 大タツ → 1962.9.15 大アカ → 1970.2.10 静ヌマ → 1970. 7.11改造 浜松工 (51818) → 1981.6.20 廃車 (静ヌマ)
※『関西国電50年』では1937.4.22製造とあり。上記のデータは『旧形国電台帳』。ただ関西国電50年のデータは使用開始日の可能性があるように思われる。
本車は関東向けのモハ51018として1937年に製造されました。この頃、東京では新中間層という社会階層が一定数定着し、彼らの中で登山やハイキングブームが起こりました。このような世相の変化を受け、高尾山に行くハイキング客へのサービスとして中央線の下り向きにセミクロスシート車のモハ51が投入されました。
しかしハイキングどころではなくなった戦時中に座席撤去を受けモハ41に編入されます。そして13年間を中央線で過ごした後、1950年にモハ43系と交換で大阪は宮原区に転属、1951年セミクロスシート座席整備、ギヤ比の高速化改造を受け、モハ51に復帰します。その後高槻電車区の開設による転属、そしてセミクロスシート車の明石区集中を受け、転属しますが、20年間京阪神緩行線で活躍します。1970年大阪万博を控えた103系の明石区への新製投入で、17m車淘汰のため身延線に転じ低屋根化改造を受け、10年間を身延線乗客輸送に従事しました。
なお、客室内ペイント塗潰しは、御殿場線時代から塗潰されていたクモハ60に合わせる形で、低屋根化改造の後の全検あたりで実施されたのではないかと推定されます。客室内のペイント塗潰しは、東京地区を中心に積極的に行われていました。普通車のペイント塗は1966年頃から行われていたようです。優等車に関しては、Wikipediaの記述によると、1953年度新造のサロ46(→75) から室内ペイント塗に変更されていたようですので、それに合わせて既存のサロもペイント塗に変わった車両があったと思われます。それらが普通車格下げの際(サロ75, 85は1965年~、クロハ55は1957年)、当時の全金属車の客室内装に採用されたメラミン化粧板(デコラ)の色に合わせてそのままモスグリーンに塗り替わったのではないでしょうか。このようなペイント塗り替えが行われた理由は、ニス塗りだと、何度もニスを塗り重ねると室内がだんだん暗くなっていきますので、それを改善するためだったようです。但しクモハ51の場合、全車に塗潰しが及ぶことはありませんでした。850代と、なぜか若番を中心にペイント塗潰しが実施されました。後半の番号ほどニス塗りが維持されていた比率が高くなります。
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