省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

身延線富士電車区担当運行区間と1950年代車両配置の変遷

 身延線の車輛を管理していた富士電車区 (現在は国鉄富士運転区を経てJR東海富士運輸区) は、元々は身延線の前身、富士身延鉄道車両基地でした。しかし、身延線だけではなく、東海道線静岡地区ローカル運転や、中央東線甲府地区ローカル運転も担当していたことがあります。その運転区間の変遷を、手元の資料から分かる範囲で記述します。

富士身延鉄道身延線*1

1913(大正2).7 富士-大宮(現富士宮)間開通 (非電化蒸気運転)

1915.3 大宮-芝川間開通

1918.8 芝川-十島間開通

1918.10 十島内船南部間開通

1919.4 内船南部-甲斐改大島間開通

1919.5 甲斐大島ー身延間開通

1927.6 富士-身延間電化

1927.12 身延ー市川大門間開通 (以降電化開通)

1928.4.1 市川大門甲府間開通

1938年鉄道省へ運営移管

1941.3 鉄道省買収 国鉄身延線となる

 

東海道線静岡ローカル運転

 Wikipediaの記述によると沼津-静岡間の電化は1949.2.1に開通したとあります。しかし、手元にある資料には、いつから、富士電車区による電車運転が始まったか明記されたものがありません。ただし、『鉄道ピクトリアル』 19533月号に掲載された「身延線 - 買収国電を探る(2)」には、宮松金次郎氏による沼津駅で撮られた富士身延鉄道出身の社形電車モハ93003の写真が掲載されていることから、モハ93の飯田線北部転出前、電化直後か遅くとも1950年には沼津ー静岡間で富士電車区の社形電車等を使った東海道ローカル運転が行われたことが伺えます。なお開業当初(1938年全通)から電化されていた伊東線の線内発着ローカル列車の電車運転化が横須賀線車輌を使って1949.5.15に始まっていますが、その理由は1949.5.20の東海道本線静岡ー浜松間の電化延長に備えて電気機関車を捻出する目的だったようなので、こちらも同様の理由で相前後して電車化された可能性があると思います。身延線へのモハ32一党の転属も、既に東海道本線ローカル運用があり、モハ32の格を活かすことができるという配慮があったと推定されます。

 

 また、同記事はおそらく1952年末〜1953年1月ごろの情報に基づいて執筆されていると思われますが、その中に富士電車区東海道ローカル運転担当区間として、富士−島田間と書かれています。この頃の富士区の配置車両数は、下記に見るように、余裕がなかったはずですので大半の列車がMcTcの2両編成だったと考えられます。

 さらに、「我が心の飯田線」サイトの記述では、1957年10月に浜松ー三島間の東海道ローカル運転が富士電車区McTc x 3 の6輌編成で始まったと書かれていますが、上記の情報を考えると、この時に富士電車区による東海道ローカル運転が始まったのではなく、ローカル運転の区間延長や運行回数、連結輛数の大幅拡充があったと考えるべきです。因みにこの頃は静岡運転所はなく静鉄には80系の配置はなく、静岡運転所が開設され80系の配置が始まったのは1961.10.1でした。

 なお、富士電車区による東海道ローカル運用が廃止されたのは、当時東海道線の車輛も持っていた大船電車区に111系が投入され、捻出された80系が静岡運転所に追加配備され、80系に運用を引き継ぐ余裕が出てきた1964年のようです。この年、旧形国電によって運行されてきた身延線快速運用も、80系によって運転される準急「富士川」に昇格し、廃止されました。

中央東線ローカル運用

 中央東線では、山岳区間のため戦前から東京−甲府間が電化され、ED17等の電機の牽引による列車が運行されてきました。また戦前にも省電の乗り入れが行われていたようです。さらに戦後になって、1949年6月に高尾ー甲府間で元モハ51のモハ41056-79およびモハ41を使用した乗り入れが復活します*2。これはトンネルの低い山区間を走るため、おそらくパンタ折りたたみ高さが4200mm以下のPS-11使用車を集めて使用したものと思われます。しかし1950年元モハ51は全て大阪に転出することになりました。その後1951年にモハ30のモニター屋根を切妻化してPS-13を載せたモハ30300(のちクモハ11100), 500〜508(のちモハ10000〜002, 050〜052)を投入することになり、更に翌年よりパンタの折りたたみ高さが低いモハ70の低屋根タイプモハ70800(→モハ71)が追加投入され、1953年にはモハ30をすべて置き換えます。これがいわゆる「山スカ」電車になります。

 中央東線の富士山麓鉄道(後の富士急行)の乗り入れも1949年の電車化により始まりました(『鉄道ピクトリアル』1954年4月号, 「国電復興物語 その3」の記述による)。

 ただし、甲府付近ローカル運用は身延線運用の間合いを利用した富士電車区の車輌が使用されていました。『鉄道ピクトリアル』1954年4月号に掲載された「国電復興物語 その4」では、これが開始されたのは、1950.9.1で、それが可能になったのは、関西からモハ42, 43が上京し、モハ32が余剰になって配置転換されたからであるとあります。但しこの記述は、「身延線 - 買収国電を探る(2)」記事の最初に横須賀線から富士に来たのはクハ47003で、それは1950.10.24だったという記述とも矛盾します。おそらく、東海道ローカル運転の開始と同様、モハ32転属前に始まったのではないでしょうか。あるいは、先の記事の記述が、20m車の入線の最初が1950.10.24だったのを誤って不正確に伝えていて、17mのモハ32はもっと前に都落ちしていた可能性も否定できません。因みに、モハ42, 43は5月、7月、9月に分けて上京したようです。なお、20m車が身延線の車両限界に抵触しないかどうかも同日確認されたようです。

 1964.8.23には電化区間甲府上諏訪まで延長されます。これで甲府ローカルも、韮崎ー塩山間に運行区間が延長されます。この運用は車両管理が富士電車区から沼津機関区になって(1969.4.11)も続き、そして沼津機関区所属車両による甲府ローカル運用が廃止されたのは、1980年3月ダイヤ改正で、廃止された運用は三鷹区(のち豊田区)の115系に引き継がれました。

 なお、この区間中、別田(のち春日居町駅)、東山梨駅はホーム有効長が短く山スカ標準編成の8両で収まりきれず、通過扱いとなり、甲府ローカル列車のみ停車するという時期が長く続きました。のち、民営化を控え、列車の編成を短くし、列車間隔も短くする様になって、中央東線普通列車は最大6両となり、全普通列車が停車するようになりました。

 

 最後に、富士電車区の1950年代の車輌配置の変遷を記します。資料出典は、1950年代の配置は『鉄道ピクトリアル』のバックナンバー、1960.3の配置は「わが心の飯田線」サイトの記述です。

1952年秋~末ごろ?*3 配置45輌
(  )内は1959年番号整理以降の車番
緑字は転入、は次期転出、赤紫は転入兼次期転出

モハ32(クモハ14)  配置 16
    001(000) 002(800) 003(801) 004(802) 005(001) 006(002)
    009(003) 010(004) 014(805) 015(806) 016(807) 018(005)
    019(809) 034(816) 036(817) 038(819)

モハ62(クモハ14) 配置 2
    002(100)  003(101)

モハユニ44 配置 2
    001(800) 002(801)

モハニ 41 配置 1
    016 (クモハ41016)

モハユニ61 配置 1
    001(44100)

モハ  40 配置 1
    050

クハ65(クハ16) 配置 1
    080(434)

クハ  47  配置 9
    001  002  003  005  006  007  008  009
    011(051)  

クハ58(クハ47) 配置 4
    002(100) 003(102) 020(110) 021(112)

クハ77(クハ18) 配置 5
    001(001) 002(002) 003(003) 017(013) 019(015)

クハ38(クハ16) 配置 2
    081(123)  097(161)

クハ17
    035 ※木造車 救援車代用

横須賀線からモハ32、クハ47がやってきて、富士身延鉄道の社形電車を飯田線北部に放出します。一方、身延線オリジナルのモハ62、クハ77は自己廃車になったものを除いて健在です。モハユニ61はいったん横須賀線から大糸線に行った後、身延線にやってきました。モハ40がいたり、クハ38もいたりしています。クハ47はオリジナル車はすべて転出してきましたが、改造車はまだ工事進行中で揃っておらず、クハ58に関しては、007(のち47104), 008(47106), 018(47108), 014(47114), 016(47116)の番号が見当たりませんが、1952.2.1の田町区の電車配置表によると*4、014, 016が伊東支区にいる以外は、クハ58の番号が見当たりませんので、007, 008, 018の3両は一旦豊橋に行ったか、あるいはこの表が1952年の早い時期のものである可能性もあります(014, 016は伊東線に転出)。クハ38は後に飯田線に転出、モハ40050は鳳を経由してのちスカイブルーに塗られて東海道線美濃赤坂支線に転じ、最後は大垣区で牽引車代用として使われたようです。またクハ65080は再度東京に戻ったあと、関西に流れます。

 なお、この表には47012(のち053)の番号が見当たりません。単にミスで見落とされたのか、それとも、一旦47013(のちの055)と同様豊橋区に配置された後、013より一足先に1953年中に富士区に移った可能性もあり得ます。あるいはリストが1952年の1~2月頃基準で作成されているのかもしれません。

 またモハユニ44の入線も、伊東線の電車化 (1949.5.15) の際に最初に入ったのはモハ32 x 4、モハユニ44 x 2、クハ47 x 2 だったということが書かれている資料がありますので*5、車番ははっきりしませんが、富士区配備の44001, 002は伊東線経由で入ってきている可能性があります。なお伊東線車両基地だった伊東支区はもともと沼津機関区伊東支区だったものが、沼津機関区が東鉄から新規発足の静岡鉄道管理局管轄下に移ることになって、1950.5.1に田町電車区の支区に変更されました。横須賀線での合造車の運用が終了し、荷物車単独の運用になったのがモニ53が登場した1949年だったようなので*6、1949年5月に一旦伊東線に行き、その後1950年秋~51年初頭に富士に入ってきた可能性は十分あります。なおその後伊東線担当車輌は、1952.2の段階でモハ42, クハ58, クハ55(のちクハニ67900代[偶数]に改造)となっています。

 本線に最初に入ったというクハ47003も伊東線経由だった可能性も否定できません。

1954年12月 配置48輌 転入16 転出 13  + 3輌

モハ  14  配置 20 転入 5 転出 3

    001(000) 002(800) 003(801) 004(802) 005(001) 006(002)
    007(803) 009(003) 010(004) 013(804) 014(805) 015(806)
    016(807) 017(808) 018(005) 019(809)
    100  101  114  116

モハユニ44  配置 3 転入 0

    001(800) 002(801) 100

モハニ 41  配置 1 転入 0
    016 (クモハ41016)

モハ  11  配置 1 転入 1  

    052

クハ  47  配置 23 転入 10 転出 0

    001  002  003  005  006  007  008  009
    011(051) 012(053) 013(055) 061  065  067
    100  102  104  106  108  110  112  114
    116

〇モハ14が番号順にそろいます。最も若番が富士区、次に豊橋区、その次が伊那松島区、最後が中部天竜支区に揃えられました。また遅れて改造されたクハ47や、一旦飯田線及び伊東線に行った改造クハ47またはクハ47100代の残りが到着し、中部天竜支区に配属された改造クハ47、3両を除く全クハ47が富士区に集結します。なお、クハ47114, 116は伊東線で偶数向きのまま使われていたので、この時の転入で奇数向きに方向転換されたものと思われます。クハ18はクハ47と交換で全車飯田線に放出し、クハは20m車で揃います。モハ14の更新修繕も始まり、そのピンチヒッターとしてかモニター屋根のモハ11が弁天橋からやってきて配置されます。クハが20m車で揃えられたのも、本線運用があったことが意識されたと思われます。

 なお、このころモハ14はまだ低屋根化されていません。身延線用のモハ14は、PS-2からパンタ折り畳み高さの低いPS-11に換装するなどして対応していたようです。

1956年3月  配置 51 転入 12 転出 9 (48 +3) (比較1954.12.1基準)

モハ  11  配置 2 転入 1 転出 0
    052  +216

モハ  14  配置 20 転入 9 転出 9
    002(800) 003(801) 004(802) 005(001) 007(803) 014(805)
    016(807) 017(808) 027(813) 030(815) 034(816) 038(819)
   
 040(820) 041(821) 043(823)
    101  110  111  114  116

 

モハニ 41  配置 1 転入 0 転出 0 (1 +-0)
    016

モハユニ44  配置 3 転入 0 転出 0 (3 +-0)
    001(800) 002(801) 100
  
クハ  16  配置 1 転入 1 転出 0 (0 +1)
    +451

クハ  47  配置 23 転入 0 転出 0
    001  002  003  005  006  007  008  009
    011  012  013  061  065  067  100  102
    104  106  108  110  112  114  116
  
クエ  9120  配置 1 転入 1 転出 0 (1 +-0)
    9120

〇モハ14の低屋根化工事が始まり、飯田線との間でモハ14の移動が激しくなります。14の中にはピンチヒッター的に一時的に入ってきて、また飯田線に戻った車輛もあります。さらに追加のピンチヒッターということかモハ11がもう1両入ってきます。なお、052の方は、後飯田線に転じ、最後は救援車代用として使用され、モニター屋根が改修されないまま、1959年に廃車されます。また池袋からやってきた216は1956年に飯田線に行ったあと大糸線に転じます。クハの方はあまり移動がありませんが、更新修繕のピンチヒッターとしてかクハ16が1両入ってきて、クハは再び17m車との混在になりました。このクハ16451は1963年まで身延線で使われたのち伊那松島に転じ、1971年まで使用されました。

 なお、この年(1956)3月、身延線で快速運転が開始されたようです。

 これ以外に救援車クエ9120が配置されます。この、クエ9120は、こちらのサイトの記述によると、救援車代用として使われていたクハ17035が、1954年3月失火により焼失したため、車体を社形のクハ29003(元信濃鉄道→大糸南線)と振り替えたものだそうです。この車輌は1963.8.1に廃車になっています。

1956.12  配置 50 転入 9 転出 x (51 -1) (比較1956.3.1基準)

モハ  11 配置 1 転入 0 転出 1 (2 -1)
    052

モハ  14  配置 20 転入 6 転出 6 (20 +-0)
    002(800) 003(801) 004(802) 007(803) 013(804) 014(805)
    015(806) 016(807) 017(808) 019(809) 021(810) 027(813)
    028(814) 
030(815) 034(816) 037(818) 038(819) 040(820)
    041(821) 043(823)

モハニ 41  配置 1 転入 1 転出 0 (0 +1)
    016

モハユニ44  配置 3 転入 1 転出 1 (3 +-0)
    001(800) 002(801) 004(802)
  
クハ  16  配置 1 転入 0 転出 0 (1 +-0)
    451

クハ  47  配置 23 転入 0 転出 0 (23 +-0)
    001  002  003  005  006  007  008  009
    011  012  013  061  065  067  100  102
    104  106  108  110  112  114  116
  
クエ  9120  配置 1 転入 0 転出 0 (0 +-0)
    9120

〇モハ14の低屋根化工事がかなり進んでいます。モハ14は低屋根車で統一されるとともに、14100代は飯田線に放出します。またモハユニ61は低屋根化工事に適さないと判断されてか大糸線の44004と交換になります。

1957.11 配置 59 転入 13 転出 4  + 9

モハ    14    配置26 転入 6
    001(000) 002(800) 003(801) 004(802) 007(803) 009(003)
    
013(804) 014(805)
 015(806) 016(807) 017(808) 019(809)
    021(810) 024(811) 025(812) 027(813) 028(814) 030(815)
    034(816) 036(817) 037(818) 038(819) 040(820) 041(821)
    042(822) 043(823)

モハユニ44  配置 3 転入 0
    001(800) 002(801) 004(802)

   
クハ    16 配置 8 転入 7

    221  407  435  451  457  469  471  487

クハ  47  配置 21 転入 0 転出 2
    001  003  005  006  007  008  009  011
    012  013  061  065  067  100  102  104
    106  110  112  114  116 
クエ    9120      配置 1 転入 0
    9120

〇1957年はクモハ14やモハユニ44の低屋根化工事が完了し、のちの14800代が富士区に揃います。それだけでなく東海道ローカル運用の拡充(1957.10 浜松-三島間)で本線専用に通常屋根のクモハ14も飯田線から入り始めます。その一方、飯田線の快速列車20m化兼4両貫通運用開始に向けた準備のため、クハ47が飯田線に取られ始めます(47002, 47108)。飯田線転出や運用増に伴うクハ不足は、首都圏から7輌のクハ16を迎え入れることで補充しますが、一時20m車で揃った制御車は再び17mと20mの混在状態に戻ります。おそらくクハ16は身延線を中心に運用されたものと推定します。

1960.3 配置 67 転入 16 転出 8

モハ    14    配置 31 転入 5
    000  001  002  003  004  006  010  800
    801  
802  803  804  805  806  807  808
    
809  810  811  812  813  814  815  816
    817  818  819  820  821  822  823

モハユニ44  配置 3 転入 0
    800  801  802

   
クハ    16 配置 11 転入 7 転出 4

    427  441  447  451  469  471  473  485
  
  487  529  561

クハ  47  配置 21 転入 4 転出 4
    001  003  005  006  007  008  009  051
    053  055  057  059  061  065  067  100
    
106  110  112  153  155 
クエ    9120  配置 1 転入 0
   9120

〇1957年から1960年にかけては、東海道ローカル運用の拡充で、通常屋根のクモハ14が飯田線からかなり移ってきます。その一方、飯田線快速運用の20m車化で貫通路付きのクハ47100代を中心に飯田線に取られる一方、その代わりに飯田線から非貫通・ロングシートのクハ47、2輌を迎えます。なお、飯田線に転出したクハ47100代の一部は流電の中間に挟むため、一部再び偶数向きに戻されました。また富士電車区ではロングシートのクハ47は、高屋根のクモハ14と組んで東海道本線専用に運用されたものと思われます。また、さらに不足する分を伊東線から元流電の中間車を改造したクハ47153, 155を迎え補充しました。この2輌もロングシート車として知られました。いくつかの資料では、1954年の更新修繕の際にロングシート化されたと書かれているのですが、おそらくその際にロングシートに改修されたのではなく、富士区に転入後、他のロングシートのクハ47に合わせ定員を増やして東海道本線ローカルで運用するため、改修されたのではないかと推定します*7。というのは伊東線という観光路線でロングシートに改修して使用する必然性が全く見当たらないためです。事実 47153, 155を合わせると、高屋根のクモハ14とロングシートのクハ47が7両ずつに揃います。なお、クハ47153, 155の経歴については47151の経歴などと混同され誤って紹介している資料が多く要注意です。またこの両車のヘッドライトが埋め込まれた時期についても1964年説、1966年説といろいろありますが*8、それらの資料自体伊東線から飯田線に転出したなどと書いているので、どこまで信頼できるか分かりません。

 さらに言うと、伊東線のMcは奇数向きで運用されていたので、クハ47153, 155 は1954年の更新修繕で偶数向きに方向転換されたはずなので、それが身延線に入るときには再度奇数向きに転換されたと考えられます。おそらくそれと同時にロングシート化工事も行われたものと思われます。

 さらに、不足する車輌の補充として首都圏からもう7輌のクハ16を迎え入れるとともに、既存のクハ16の一部(おそらく余り状態のよくない車両)を飯田線に放出します。このうち、16407, 16435は便所取付車だったようです。また16221は飯田線転属後クハニ19に改造されました。結果的に20m車は増減なし、17m車が8輌増える結果になりました。20mクハは身延線快速運用を除いては、東海道本線ローカルに重点的に運用されたのではないかと推定されますので、おそらく身延線での17m車運用比率が増える結果になったものと思われます。

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yasuo-ssi.hatenablog.com

 

*1:以下の記述は「身延線 - 買収国電を探る(2),『鉄道ピクトリアル』3-(3), 19533月に基づく。

*2:『鉄道ピクトリアル』1953年1月号掲載、「山手線から見た東京の国電(2)」記事の記述より。

*3:データ出所:「身延線 - 買収国電を探る(2)」, 『鉄道ピクトリアル』 19533月号。但し、1952年当初データである可能性もある。

*4:『タイムスリップ横須賀線』, 大正出版, 2004 による

*5:横須賀線70系時代 (上)』, ネコパブリッシング, 2021。ただし本書では、1950.5に田町電車区伊東支区として電車化した、と書かれているが、1950.5.1は沼津機関区伊東支区が田町電車区伊東支区に管轄替えになった日であり、電車化自体は、前年の沼津機関区支区時代から始まっているはず。

*6:横須賀線用モニ53の改造は1949.2月までに完了。

*7:この両車は、飯田線にいましたが、1954年に更新修繕を受けて、すぐ伊東線に転属しました。なお、『1950年代の戦前形国電 (下)』(ネコパブリッシング, 2018) では、伊東線転属時にロングシート化されたと書き、またWeb上の以下の記事では更新修繕でロングシート化されたと書かれており、筆者もそう思っていましたが、身延線の車両の出入りを調べていて、その説に疑問を持つようになりました。

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*8:1966年説は『国鉄電車ガイドブック 旧性能電車編(上)』(誠文堂新光社, 1971)、1964年説は『1950年代の戦前型国電 (下)』(ネコパブリッシング, 2018)