省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

主にクハユニ併結列車運用に使われた飯田線 クモハ42009 (蔵出し画像)

 こちらは、飯田線を走ったクモハ42009 です。クモハ42は、京阪神間の電車化で製造された2扉車のモハ43グループの両運転台型電車です。1950年に他のモハ43グループと共に上京し横須賀線で使われますが、両運転台で定員が少なかったためか、70系が整備されるとすぐ横須賀線から離れ、伊東線で使われました。その後昭和30年代に宇部線飯田線に分かれて都落ちしました。若番車が宇部線に、それ以外が飯田線に移り、本車は飯田線に移った1両でした。

 飯田線移転後は豊橋区に配備され、幌があり、しかも両運で上り、下りどちら側にも使えることから、当初は主として快速を担当とする4両貫通運用で使われ、湘南色に塗られていたこともあったようです。このため、正面に快速表示器が残っていました。ただし、側面にあったはずの快速表示用のサボは撤去されています。私が撮影した1970年代末期には、主としてクハユニをつないだ McMcTpgc の3輌 40 番台運用、および快速運用の名残の4両貫通運用である 30番台運用に充当されていました。このため、下りより、あるいは中間に挟まれることが多く、パンタ側が先頭になった姿を見ることは稀でした。

 以下の写真はいずれも4両貫通運用下り側に連結されていた時の写真です。

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クモハ42009 (静トヨ) 1977.12 豊橋駅

 正面にしっかり幌をそろえていますが、幌枠は原型のものではありません。飯田線に移ってから交換されたものと思われます。幌枠に小窓が開いているのは、1950年代、静鉄の幌枠の特徴のようです。

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クモハ42009 (静トヨ) 1977.12 豊橋駅

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クモハ42009 (静トヨ) 1975.5 豊橋駅

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クモハ42009 (静トヨ) 1975.5 豊橋駅

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クモハ42009 (静トヨ) 1975.5 豊橋駅

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クモハ42009 (静トヨ) 1975.5 豊橋駅

 パンタグラフは原型の PS-11 を備えていました。

では、本車の車歴です。

1934.2.14 川崎車両製造 → 1934.6.30 使用開始 大ミハ → 1937.11.6 大アカ → (不明) 座席撤去 → 1948.12.8 座席整備 → 1950.3.29 更新修繕I 吹田工 → 1950.9.26 東チタ →  (1951.3頃?) 東イト →  1956.6.9 更新修繕II 豊川分工 → 1957.2 東チタ→ 1957.3 静トヨ → 1979.1.12 廃車 (静トヨ)

 本車は、1934年に川崎車輛で製造され、関西の名門宮原区に配備されました。1937年には流電の配備により急電運用のなかった明石区にうつります。戦時中は4扉化の計画が立てられましたが、本車は幸い実施されることなく、戦後まで2扉車として残ります。

 戦後、横須賀線用として上京しますが、すぐ伊東線に転じます。1957年に再度田町区に呼び戻されますが、すぐ飯田線都落ちします。一時的に田町区に戻ったのは、おそらく何らかの事務手続き上の必要があってのことでしょう。

 1957年に飯田線にやってきてからは、最も長い22年間を過ごしましたが、豊橋区への80系の導入を受けて1979年に廃車となりました。