省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

1934年度製クハ55原形唯一の生き残りだった 大糸線 クハ55026 (蔵出し画像)

 本車は、クハ55の第1次車 (001~023) に引き続き製造された、第2次車です。平妻ですが、半室運転台のサイズが大きくなったため、窓配置が第1次車とは異なり、運転台側乗務員室扉後ろの窓が2枚になっているのが特徴です。

 なお、本グループは戦災やクハ68への改造で、1970年頃には本車と高槻区にいた 025 の2輌しか残存していませんでしたが、025は1975年に廃車され、撮影時点では本車が唯一の生き残りでした。

 なお、東鉄向けの平妻 40系は クモハ40020~034 (1933年度)、40035~56 (1934年度)、クハ55020~023 (1933年度)、クハ55024~030 (1934年度 [落成は1935年])、そしてサハ57001~013 (1933年度) で、いずれも当初は引き通し線の線数の違い (関東向け 8芯 x 3線、関西向け 12芯 x 2線) から100番台を名乗っていました。戦後は関西タイプに統一されることになります。因みにサハ57は関西向けには作られませんでした。1934年度製の車輛は本車と同様、乗務員室扉の後ろに窓が二つあるのが特徴です。

クハ55026 (長キマ) 1976.10 松本

クハ55026 (長キマ) 1976.10 信濃大町

 この日は、55026 + 51011 + 57402 + 60024 の編成でした。当時、大糸線の運用に関してはこちらをご覧ください。

クハ55026 (長キマ) 1976.10 松本

クハ55026 (長キマ) 1977.5 信濃大町

 1-3位側です。一番前の客用扉の引き込み口に、大糸線独特の雪吹込み防止装置がついているのが見えますが、2, 3番目のドアはゴムで代用されていました。なお2-4位側は、1, 2番目の扉のみに雪吹込み防止装置が装備されていました。

クハ55026 (長キマ) 1976.10 松本

クハ55026 (長キマ) 1977.7 北松本運転支区

クハ55026 (長キマ) 1976.10 松本

 本車の特徴である、乗務員室扉後の2枚の窓です。

クハ55026 (長キマ) 1976.10 松本

クハ55026 (長キマ) 1976.10 松本

 助手席側には大きな緊急用のハンドブレーキが設置されています。

クハ55026 (長キマ) 1976.10 松本

 ドア開閉スイッチ。半室運転台なので、こちら側は客室から丸見えです。もちろん鍵がついていますので、乗客にイタズラで開けられる心配はありませんが...

クハ55026 (長キマ) 1976.10 松本

クハ55026 (長キマ) 1976.10 松本

本車の車歴です。
1935  川崎車輌製造 (クハ55106) ※ → 使用開始時期不明 東ツヌ → 1936.4.1 改番 (クハ55026) → 1940.7.11 東カノ → 1949.12.5 東イト → 1950.3.28 東チタ → 1950.3.28 東カマ → 1950.11.15 東ヒナ → 1955.12.3 東マト → 1956 更新修繕I 大宮工 → 1966.3.30 長キマ → 1977.9.9 廃車 (長キマ)  ■最終全検 50-8 長野工

 本車の誕生には謎があります。上記車歴は主に北松本支区で閲覧させていただいた車歴簿に基づいた情報によりますが (廃車日は鉄道ファンの車輛の動き情報、改番日は沢柳健一氏らによる旧形国電台帳による)、車歴簿では1935年製川崎車両製造、使用開始日不明とありましたが、旧形国電台帳には 1935.6.27使用開始 汽車会社東京支店製造とあります。因みに現車には、私が現車を見たメモによると、昭和貮年 川崎造船所 兵庫工場との銘板がついていたとあります。今思えばそれも変な話です。但し、当時の大糸線で昭和2年製の電車はないはずなのでメモの取り違えとは思えません。車歴簿上使用開始日不詳となっていたことも考え合わせると、ひょっとすると事故車の復旧名義で新造されていた可能性もあるように思われます。

 因みに浅原信彦氏が書かれた「国鉄電車ガイドブック 旧性能電車編(上)」では平妻のクハ55 の製造所は日本車輛または川崎車輌とありますので、旧形国電台帳の方が間違っている可能性があります。

 関東向け40系は当初引き通し線の違いから100番台を名乗っていましたが、すぐ関西向け車両の追番に改番されました。おそらくこのグループは全車奇数向きだったのではないかと思われます。

 車歴簿では使用開始時期不詳とありましたが、いずれにせよ1935年中に総武線用に津田沼区に配備されたようです。さらに中央線に転じましたが、戦後、東海道線電化延長で機関車を捻出するために伊東線の列車を電車化することになり、本車に白羽の矢が立つことになります。しかし翌年すぐ首都圏に呼び戻され (書類上一時的に田町区に移ります) 、一旦京浜東北線に入りますが、京浜東北線の63系統一で横浜線に転じ、5年後、首都圏最大の3扉車集結地であった常磐線に転じます。1966年には、17m車置き換えのため大糸線に移り、11年余りを過ごしますが、1977年8月10日の中央西・篠ノ井ローカル運用の80系置き換えの余波を受け、トイレなしロングシート車の本車は、乗客サービス上不利なのと、ちょうど全検切れを迎えたためか、セミクロス車のクハ68に置き換えられる形で廃車となりました。このグループは関西に移って、その後クハ68化された車両が多かったのですが、本車は、終生関東甲信越地区を離れませんでした。