省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

改造後一時 55440 の番号を振られていた 大糸線のクハ55439 (蔵出し画像)

 大糸線に クハ55 は数多く在籍していましたが、その多くはオリジナルのクハ55ではなくサハ57を改造したクハ55をさらに便所つきに改造したものでした。本車はその中の1輌、クハ55439 です。実はこの車輛、便所つきに改造された当初はクハ55440とされましたが、そのあと奇数向きなのに偶数番号はまずいと奇数番号に改番されたという経緯があります。実はクハ55440 と名付けられた車輛は合計で 3 輌あり、のちにこの番号をめぐってダブルブッキング問題が起こるのですが、本車はいわばその混乱の最初の引き金になった車輛と言えるかもしれません。本車は一時 55440 を名乗った初代です。

クハ55439 (長キマ) 1977.7 松本

 松本駅に停車するクハ55439です。サボ交換のために非ホーム側のドアが開けっぱなしになっています。今だったら、乗客が転落する、と大問題になりそうですが、当時は特に問題になることはありませんでした。運転台窓が H ゴムになっています。

クハ55439 (長キマ) 1976.10 信濃大町

 信濃大町駅で編成の中間に挟まる同車。

 

クハ55439 (長キマ) 1976.10 信濃大町

 床下に注目してみました。

クハ55439 (長キマ) 1975.5 松本

 こちらは松本ー麻績間の篠ノ井線区間運用に就くクハ55439です。正面の扉に桟が入っている特徴がはっきり分かります。なお、1-3位の写真が撮れていませんが、他の方が写した写真では、2-4位側の客用扉と同様だったようです。

クハ55439 (長キマ) 1975.5 松本

 同じ編成の連結面。右は沼津から転入してきたばかりのクモハ43810です。所属区名略号が静ヌマのままです。なお、クハ55439 とクモハ 43810 で幌の支持の方法が異なるのがお判りでしょうか?


 では本車の車歴です。

1933.12.13 製造 汽車会社東京支店 (サハ57010) 東鉄配属 → (1947.3.1 現在 東チタ) →  1947.6.25 連合軍専用車指定 → 1952.4.1 連合軍専用車指定解除 → (1954.11.1 現在 千ツヌ) →  1961.8.31 東シナ → 1961.9.11 改造 大船工 (クハ55331) → 1962.4.1 東モセ → 1962.11.19 東シナ → 1963.1.13 東ヒナ → 1965.9.30 東ナハ → 1966.5.4 長キマ → 1968.2.4 改造 大井工 (クハ55440) → 1963.3.1 改番 (クハ55439) → 1977.9.9 廃車 (長キマ)

参照資料:『旧型国電台帳』『終戦直後の東京の電車』『関東省電の進駐軍専用車』『鉄道ピクトリアル』『鉄道ファン』バックナンバー

 本車は東鉄に最初に配属された40系の一員の付随車 サハ57010 として、汽車会社東京支店で製造されました。最初に配属された車両基地は、手元の資料では確認できません。ただ、1947年現在でサハ57の配置が多いのは京浜線や山手線ですので、東カマか東シナの可能性が高いものと思われます。その後、1947年の時点で田町区にいるので横須賀線用に配備されていました。ロングシートだったため連合軍専用車として活用されたようです。当時米兵にはクロスシートは足が延ばせないと不評だったためです。

 その後、1952年の連合軍専用車指定解除を受けて、当時20m 3扉車が集められていた拠点の一つ、総武線に移動します。『関東省電の進駐軍専用車』によりますと、名目上の指定解除は、4.1 だったようですが、実際運用から外れた (接収解除) のは、4.28以降しばらく経ってから順次行われたようです。それでもおそらくその年の内に移動したのではないでしょうか。その後、総武線から山手線に移動してすぐにクハに改造されます。他の車輛の車歴も見てみると、本車を含むクハ57改造のクハ55の第2次タイプはいずれも改造時に品川区に集められています。山手線でも常磐線のように分割併合運転の必要があって改造されたとは、山手線の混雑状況を考えると、ちょっと考えられません。しかも1950年前後におそらく混雑のため、20m 3扉車が追放され、20m 4扉車と、17m 3扉車に統一されているのですが...

 一つ考えられる可能性としては、長編成化 (おそらく 8 輌編成統一) が計画されたものの、車輛基地や電留線の収容長から、単一で長編成は組めず2編成を1本に組成して運行する必要から、足りなくなるクハを持て余し気味のサハ57を改造することで充当する、というあたりでしょうか。因みに、手元の資料によると、1950年代末、これは池袋電車区の場合ですが、当時山手線用は基本編成が5輌、付属編成が3輌で、一部の列車のみ8輌で運転されていたようです。その際、3扉のためになるべく客の少ない編成の端につなぐ必要があることから、前面貫通扉は客用扉の転用を止めたのではないでしょうか。品川電車区は、1967年に現在の東京車輛総合センターにある2階建て庫が完成するまでは品川駅構内にあって手狭で苦しんでいたはずですので。ただこのあたり手元にそれを裏付ける文献がありません。多分古い鉄道雑誌を丹念に読めば記事は出てきそうですが。もしご存じの方はご教示いただけると幸いです。

 その後、山手線と京浜東北線の間を行ったり来たりしたあと、横浜線、さらには南武線に転じます。そして、1966年に17m車淘汰のため大糸線に転じ、その2年後に便所つきに改造されました。『旧形国電台帳』によると施行工場は大井工とされているのですが、わざわざ大井工まで改造のために送ったのかどうか、ひょっと記述ミスで長野工場で施行されたのではとも思いますが、分かりません。ただ当初奇数車にもかかわらず、関係なく 55440 と改番され、翌年奇数番号である 55439 に再改番されたようです。その後長らく大糸線を中心に活躍しましたが、1977年に中央西線篠ノ井線の上松ー松本ー聖高原区間運用が北松本支所の旧形から松本本所の 80 系に移管された際に、余剰廃車となってしまいました。