省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

豊橋機関区の救援車 クエ28100

※本記事は、以前別サイトに掲載していたものを若干手直ししたものです。

 本車は、ずっと豊橋機関区の片隅にいた救援車、クエ28100です。他の車に隠れていることも多かったのですが、このときはたまたま比較的空いていたため全体を撮ることができました。もっとも天気が悪くASA400のフィルムでしかも開放で撮っているので、粒子の荒れと、コンパクトカメラのレンズの悪さがもろに出ています。

 もともとは山手線で活躍したサハ17でした。

クエ28100 (静トヨ) 1977.12 豊橋機関区

クエ28100 (静トヨ) 1977.12 豊橋機関区

クエ28100 (静トヨ) 1976.5 豊橋機関区

本車の車歴です。

1927 川崎造船所製造 (サハ73539) → 1928.10.1 改番 (サハ36040) → (1947.3 東マト在籍) → → 1951 更新修繕I 大宮工 → 1953.6.1 改番 (サハ17022)  → (1954.1 東イケ在籍)→ 1955.12.22 改造 大宮工 (サハ17122) → (東イケ) → 1961.3.24 東ヤコ → 1963.11.10 静トヨ → 1964.3.30 改造 浜松工 (クエ28100) → 1985.2.28 廃車 (静トヨ)

 元々は1927年にサハ73539として製造された半鋼製電車の始祖、30系の中間付随車でした。東鉄に配置されたことは間違いありませんが、どの電車区だったかは分かりません。なお、1947.3当時は松戸電車区に配備され(『終戦直後 東京の電車』による)、さらにダブルルーフ屋根をシングルルーフに改造する直前(1954.1)には池袋電車区にいたことが分かっています。

 一旦常磐線に出た本車が、再び山手線に戻ったのは意外です。これは、1950年頃に63系の増備を受けて、東京の国電の再編があり、17m車は買収線区 (南武、青梅、鶴見)、および山手線に集中配備、京浜東北、中央線は連合軍専用車を除き20m 4扉車に集中配備、山手線は 20m 3扉車が排除され、20m 4扉車と17m 車の混成に、そして関東の20m 3扉車はやや閑散な、常磐、総武、横浜線 (一部横須賀線) に限定し、余った20m 3扉車は関西に転出させられました。本車は戦前か戦中かは分かりませんが一旦常磐線に流れました。ひょっとすると1936年の松戸電化の際に転出したのかもしれません。しかし、常磐線に20m 3扉車に統一させるにあたって不都合となり、1950年前後に転出したものと思われます。その際本車はサハであるため、編成の短い買収線区に転出させては使いにくいので都心の山手線に還流させたのでしょう。山手線が20m と合わせて遅くまで(101, 103系投入まで) 17m が使われていたのは、今考えると意外ですが、一つは当時山手線の車両基地が狭かったため、20m 車に統一できなかったことと、ラッシュの激しい山手線では、扉間隔のあく20m 3扉車だと、乗客がさばききれないと考えられたためでしょう。

 今日 JR東日本ではますます 4 扉車統一の動きに拍車がかかる一方、JR 西日本では、古くなった4扉車の代替に、3扉車が新造されているのを見ると、当時の動きは現在を先取りしていたと言えそうです。

 1961年に101系に追われて南武線、矢向電車区に移りますが、やはり持て余されたためか (しかも矢向電車区は敷地も狭かったので) ほどなく豊橋に移ります。豊橋ロングシート 17m のサハが必要だったとも思えませんので、おそらく救援車改造含みでの移動だったものと思われます。
 そして豊橋で80系の終焉を見送った後、85年に廃車となっています。

データ出典: 『鉄道ピクトリアル』バックナンバー、『旧型国電車両台帳』、『終戦直後 東京の電車』(ないねん出版)