省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

新潟地区で活躍後、松本に転じた クハ68200 (蔵出し画像)

 先日クハ68044の写真をアップしましたが、今回は、クハ68200 です。横須賀線用クハ47002 を三扉化改造した珍車です。写真が撮れたのは長岡運転所でのこの1枚だけでした。正面を見ていただくと、筒を斜めに切ったような「角」が正面に生えておりますが、これが雪よけのタイフォンカバーで、この中にタイフォンが収容されていました。比較的初期に新潟に配備された車両はこのようなタイフォンカバーを装着していました。また、新潟地区にいた クハ68 としては、出自がクハ47 ですので、トイレを設置していたという点で貴重な存在でした。

クハ68200 (新ナカ) 1976.8 長岡運転所

では、本車の車歴です。

1931 日本車輌製造 → 1931.2.24 使用開始 東チタ → (1947.3.1 現在 東チタ) → (1954.12.1 現在 静フシ)→ 1957.10.12 更新修繕II 豊川分工 → 1957.10 静トヨ → 1959.5 静ママ → 1963.11.12 東フナ → 1964.1.27 改造 大船工 (クハ68200) → 1964.1.30 新ナカ二 → 1967.11.15 新ナカ → 1976.10.26 長モト → 1978.1.17 廃車 (長モト)

 本車は横須賀線用クハとして1931年に日本車両で製造されました。国鉄初の20m電車のうちの 1輌でした。しかし、1950年の暮〜1951年ごろ、関西からクモハ43一党の上京と70系の新製配備を受け、モハ32とともに身延線都落ちします。もともとクハ47 は、付属編成用として、下り向き偶数車として製造されたはずですが、身延線はモハを偶数車、サハを奇数車に揃えていたため、方向転換を受けます。その後、1957年に飯田線豊橋区に移ります。ところが、1957年10月に更新修繕II を豊川分工場で受けた際、快速編成用として偶数車に戻されたようです*1。しかし、2年後に北部の伊那松島に移ります。おそらく、豊橋では、快速用としては、サハ代用としても使える貫通車が好まれたのに対し*2、北部の伊那松島では隙間風の入りにくい非貫通車が好まれたためではないかと推測します。

 ところがなぜか1963年に、古巣の横須賀線に呼び戻されます。これも推測ですが、当時横須賀線の2扉車を3扉化する工事が進行していたため、一時的な車輌不足を補うために呼び戻されたのではないでしょうか。そして、当時偶数車で揃っていたクモハ43, 53 の代用として使うため、唯一の偶数車であった本車に白羽の矢が立ったものと推定されます。

 そのついでに本車も3扉化されますが、これは新潟地区への70系の捻出が決まっており、それに当たり3扉クハ不足であったため、飯田線に戻さずに改造され、新潟送りに充当されたものと推測されます。おそらく3扉の姿で横須賀線を走ることはなかったでしょう。

 改造後すぐ当時電気機関車を担当していた長岡第二機関区の配属となり、横須賀線から長岡に渡った仲間の70系とともに活躍を始めます。1967年には長岡第一機関区などと統合し長岡運転所となり、そのまま、新潟地区で115系化まで活躍します。ところがそこで廃車かと思われたところ、思わぬ転出がありました。信越線の70系を担当していた松本運転所に移ることになります。

 これは、松本の70系は、基本的に偶数側がトイレ付き、クハ76、奇数側がトイレなしクハ68に統一されていたのですが、クハ76の数が足りず予備車として、仙石線から転出してきた偶数車のクハ68090を配置していました。ところがこの車はトイレがなかったため、68090が運用に入るとその編成はトイレなしになってしまうという問題がありました。このため新潟地区でご用済みになったトイレ付き偶数車で、しかもジャンパケーブル 3 線対応済みとなっている本車に最後の活躍の機会が与えられたというわけです。そして信越線の115系化とともに、ついに本車も引退となりました。47年に渡る活躍となりました。

 

*1:「我が心の飯田線」サイトの記述による。

*2:当時はまだサハ75等の転入がありませんでした。

遅れて新潟地区にやってきた クハ68044 (蔵出し画像)

 本車は新潟地区で活躍していたクハ68です。最近越後ときめき鉄道でもリバイバルカラーの車が出ていますが、有名な元祖新潟色をまとっています。もともと新潟地区は1963年に関西地区から移ってきたクハ68+モハ70で電車化されましたが、当初はブドウ色のままでした。しかし雪の中での視認性に問題があったことから派手な黄色と赤の塗装に変更されました。

 運用範囲は、1970年代には長岡を中心に上越線の新潟ー越後湯沢間、信越線の新潟ー直江津間、白新線羽越線の新津ー村上間の4両運用に使用されていました。新潟の70系は、上越国境を抜け高崎に至る列車の運用も担当していましたが、そちらは6両運用に限定されており、この運用にはクハ68は使われていませんでした。

クハ68044 (新ナカ) 1976.8 長岡

クハ68044 (新ナカ) 1976.8 長岡

クハ68044 (新ナカ) 1976.8 長岡

 2-4位側です。ジャンパ栓受けが受け台に乗っていますが、これは70系に合わせて名古屋地区に移った際に三線化された際に改造されたためと思われます。ジャンパケーブルは横須賀線に準拠して3線になっていることが分かります。

クハ68044 (新ナカ) 1976.8 長岡

 室内はモスグリーンに塗られていましたが、新潟地区の車輛の内装の大半はニス塗りで例外的な存在でした。これも遅れて、名古屋地区経由できたためです。

クハ68050 (新ナカ) 1976.8 長岡

 やはり本車の新潟地区での例外的存在を示すものとしてタイフォンカバーがあります。新潟地区のクハの大半は、正面上部の、円筒を斜めに切ったような独特の形のタイフォンカバーの中にタイフォンを収容していましたが、本車は屋根上のタイフォンの上をカバーで覆っただけで簡易化されていました。これも遅れて新潟に来たためです。なお上の写真は、本車ではなく、クハ68050 のタイフォンカバーです。

本車の車歴です。

1937.3.31 川崎車両製造 (クハ68012) → 1937.6.7 使用開始 大ミハ → 1937.10 大アカ → 1943.11.18 改造 吹田工 (クハ55126) →1948.12.2 座席整備 吹田工 → 1953.6.1 改番 (クハ68044) → 1956.7.31 更新修繕I 吹田工 → 1966.4.23 名カキ → 1968.8.23 名シン → 1969.9.10 新ナカ → 1976.10.7 廃車 (新ナカ)

 本車は京阪神緩行線用として、1937年に川崎車輌で製造されました。初のセミクロスシートの車のモハ51系列のクハとして誕生しますが、クハ68は関西向けのみで、全車偶数向きでした。最初は宮原区に配備されるものの、1937.10.10、電車区間の延長によって誕生した明石電車区の開設とともにそちらに移り、30年近く関西にいた時期の大半をここで過ごします。

 戦時中はご多分に漏れず座席撤去を受けクハ55126に改番されますが、1948年に座席が復旧され、さらに1951年には京阪神緩行線セミクロスシート復活方針を受け、セミクロスに戻ります。1953年にはクハ68に復旧しますが、番号はオリジナルではなく改番されます。

 長らく京阪神間で活躍しましたが、中央西線名古屋口電化用として1966年に名古屋地区に移ります。この時期に室内もモスグリーン化されるとともに、横須賀線から移ってきた70系に合わせるために、ジャンパ栓の3栓化も行われました。しかし名古屋暮らし3年で再度新潟地区に移ります。そこで最後の10年間を過ごしました。

 なお、本車が所属し、新潟地区の電車運用の中心基地として稼働していた長岡運転所は、JR化後、長岡車両センターとなりましたが、のち電車の方は上沼垂運転区 (→現在新潟車両センンター) に全面移管され、主として電気機関車車両基地として稼働していましたが、JR 東日本の機関車を減らしていく方針の結果、所属車両数は減少し、ついに今年3月のダイヤ改正で廃止となってしまったようです。残念です。

1934年度製クハ55原形唯一の生き残りだった 大糸線 クハ55026 (蔵出し画像)

 本車は、クハ55の第1次車 (001~023) に引き続き製造された、第2次車です。平妻ですが、半室運転台のサイズが大きくなったため、窓配置が第1次車とは異なり、運転台側乗務員室扉後ろの窓が2枚になっているのが特徴です。

 なお、本グループは戦災やクハ68への改造で、1970年頃には本車と高槻区にいた 025 の2輌しか残存していませんでしたが、025は1975年に廃車され、撮影時点では本車が唯一の生き残りでした。

 なお、東鉄向けの平妻 40系は クモハ40020~034 (1933年度)、40035~56 (1934年度)、クハ55020~023 (1933年度)、クハ55024~030 (1934年度 [落成は1935年])、そしてサハ57001~013 (1933年度) で、いずれも当初は引き通し線の線数の違い (関東向け 8芯 x 3線、関西向け 12芯 x 2線) から100番台を名乗っていました。戦後は関西タイプに統一されることになります。因みにサハ57は関西向けには作られませんでした。1934年度製の車輛は本車と同様、乗務員室扉の後ろに窓が二つあるのが特徴です。

クハ55026 (長キマ) 1976.10 松本

クハ55026 (長キマ) 1976.10 信濃大町

 この日は、55026 + 51011 + 57402 + 60024 の編成でした。当時、大糸線の運用に関してはこちらをご覧ください。

クハ55026 (長キマ) 1976.10 松本

クハ55026 (長キマ) 1977.5 信濃大町

 1-3位側です。一番前の客用扉の引き込み口に、大糸線独特の雪吹込み防止装置がついているのが見えますが、2, 3番目のドアはゴムで代用されていました。なお2-4位側は、1, 2番目の扉のみに雪吹込み防止装置が装備されていました。

クハ55026 (長キマ) 1976.10 松本

クハ55026 (長キマ) 1977.7 北松本運転支区

クハ55026 (長キマ) 1976.10 松本

 本車の特徴である、乗務員室扉後の2枚の窓です。

クハ55026 (長キマ) 1976.10 松本

クハ55026 (長キマ) 1976.10 松本

 助手席側には大きな緊急用のハンドブレーキが設置されています。

クハ55026 (長キマ) 1976.10 松本

 ドア開閉スイッチ。半室運転台なので、こちら側は客室から丸見えです。もちろん鍵がついていますので、乗客にイタズラで開けられる心配はありませんが...

クハ55026 (長キマ) 1976.10 松本

クハ55026 (長キマ) 1976.10 松本

本車の車歴です。
1935  川崎車輌製造 (クハ55106) ※ → 使用開始時期不明 東ツヌ → 1936.4.1 改番 (クハ55026) → 1940.7.11 東カノ → 1949.12.5 東イト → 1950.3.28 東チタ → 1950.3.28 東カマ → 1950.11.15 東ヒナ → 1955.12.3 東マト → 1956 更新修繕I 大宮工 → 1966.3.30 長キマ → 1977.9.9 廃車 (長キマ)  ■最終全検 50-8 長野工

 本車の誕生には謎があります。上記車歴は主に北松本支区で閲覧させていただいた車歴簿に基づいた情報によりますが (廃車日は鉄道ファンの車輛の動き情報、改番日は沢柳健一氏らによる旧形国電台帳による)、車歴簿では1935年製川崎車両製造、使用開始日不明とありましたが、旧形国電台帳には 1935.6.27使用開始 汽車会社東京支店製造とあります。因みに現車には、私が現車を見たメモによると、昭和貮年 川崎造船所 兵庫工場との銘板がついていたとあります。今思えばそれも変な話です。但し、当時の大糸線で昭和2年製の電車はないはずなのでメモの取り違えとは思えません。車歴簿上使用開始日不詳となっていたことも考え合わせると、ひょっとすると事故車の復旧名義で新造されていた可能性もあるように思われます。

 因みに浅原信彦氏が書かれた「国鉄電車ガイドブック 旧性能電車編(上)」では平妻のクハ55 の製造所は日本車輛または川崎車輌とありますので、旧形国電台帳の方が間違っている可能性があります。

 関東向け40系は当初引き通し線の違いから100番台を名乗っていましたが、すぐ関西向け車両の追番に改番されました。おそらくこのグループは全車奇数向きだったのではないかと思われます。

 車歴簿では使用開始時期不詳とありましたが、いずれにせよ1935年中に総武線用に津田沼区に配備されたようです。さらに中央線に転じましたが、戦後、東海道線電化延長で機関車を捻出するために伊東線の列車を電車化することになり、本車に白羽の矢が立つことになります。しかし翌年すぐ首都圏に呼び戻され (書類上一時的に田町区に移ります) 、一旦京浜東北線に入りますが、京浜東北線の63系統一で横浜線に転じ、5年後、首都圏最大の3扉車集結地であった常磐線に転じます。1966年には、17m車置き換えのため大糸線に移り、11年余りを過ごしますが、1977年8月10日の中央西・篠ノ井ローカル運用の80系置き換えの余波を受け、トイレなしロングシート車の本車は、乗客サービス上不利なのと、ちょうど全検切れを迎えたためか、セミクロス車のクハ68に置き換えられる形で廃車となりました。このグループは関西に移って、その後クハ68化された車両が多かったのですが、本車は、終生関東甲信越地区を離れませんでした。

中央東線で活躍する 211系トップナンバー

 こちらは中央東線で活躍する211系のトップナンバーです。国鉄末期の1985年に製造され、2012年まで名門田町電車区に配置されて長年東海道本線の通勤需要を担っていました。なお、本車の前は平坦地用の111、113系と勾配地用の115系に分かれており、東日本地区では、東海道、横須賀、総武、伊東、内房外房線113系、東北、高崎、中央東、上信越、大糸、身延、御殿場線115系と分かれていましたが、211系ではその区別がなくなって、113, 115系の後継として、新製配置では東海道 (東京~中京地区)、東北、高崎、中央西線名古屋口に配備されました。民営化後も継続製造されましたが、関西地区では配備されませんでした。因みに西日本には国鉄時代、本系列の2扉車版、213系が岡山地区・宇高連絡用に製造されましたが、その後継はJR西日本独自開発の 3扉車 221系となりました。

 しかし、233系3000代の東海道本線への投入で、2012年に東海道線の運用を離脱、その際、製造以来一緒に編成を組んでいたサハ211-1, 2、およびサロは一足先に廃車になってしまいました。因みに、製造当初はサロ210, 211 のトップナンバーと連れ立って運用されていましたが、東北・高崎線グリーン車の運用開始、ならびに113系の231系の置き換えの完了により、2005年の9月、経年の比較的浅かった113系用ステンレス製2階建てグリーン車と振替えられ、サロのトップナンバーは高崎区に転用されました。因みに元トップナンバーのサロも2014年に廃車になっています。

 しばらくの間の休車を経て、2014年に115系置き換えのため長野にやってきてそれ以来中央東線、および篠ノ井線の立川ー高尾ー甲府ー松本ー長野間で運用されています。

 JR東日本のコロナ前の計画 (2020年ごろ) では、2024年に京浜東北線横浜線でワンマン対応の E235系を投入し、余剰となる 233系を中央東線に投入して、本系列を置き換える方向で労働組合と交渉をしていたようですが、コロナ禍による売り上げの大幅減少や半導体不足で、計画は練り直しとなっているようです。とは言え、JR東海の211系も置き換えが進行中ですので、本車も多少延命があったとしても、活躍はここ数年でしょう。

クハ210-1 (長ナノ) 2023.5 甲斐大和 海側

クハ210-1 (長ナノ) 2023.10 高尾 山側

クハ210-1 (長ナノ) 客室内 2023.5

クハ210-1 (長ナノ) 客室内 2023.5

クハ210-1 (長ナノ) 客室内 2023.5

 クハ210-1 のトイレ表示です。なぜか本車のみ「あき」の地の色が青になっていますが、これは他車にない本車のみの特徴です。

 

モハ210-2 (長ナノ) 2023.5 甲斐大和 海側

モハ210-2 (長ナノ) 2023.10 高尾 山側

モハ210-2 (長ナノ) 2023.5 甲斐大和

モハ210-2 (長ナノ) 客室内 2023.5

モハ211-2 (長ナノ) 2023.5 甲斐大和

モハ211-2 (長ナノ) 2023.5 甲斐大和

モハ210-1 (長ナノ) 2023.5 甲斐大和

モハ210-1 (長ナノ) 2023.5 甲斐大和 海側

モハ211-1 (長ナノ) 2023.5 甲斐大和

モハ211-1 (長ナノ) 2023.10 高尾 山側

モハ211-1 (長ナノ) 2023.10 高尾 屋根

モハ211-1 (長ナノ) 客室内 2023.5

モハ211-1 (長ナノ) 客室内 2023.5

クハ211-1 (長ナノ) 2023.5 甲斐大和 海側

クハ211-1 (長ナノ) 2023.5 甲斐大和 海側

クハ211-1 (長ナノ) 2023.10 高尾 山側

クハ211-1 (長ナノ) 客室内 2023.5

クハ211-1 (長ナノ) 客室内 2023.5

クハ211-1 (長ナノ) 客室内 2023.5

 クハ211-1 のトイレ表示です。210-1 とはことなり、「あき」の表示が通常通りです。

本編成の車歴です。

1985.12 東急車両製造 (南チタ) → 1987.4.1 東チタ → 2013.3 東トウ → 2014.5 長ナノ

データはレイルラボを参照しています。

 本年で38年目に突入した計算です。なお、長野総合車両センターは2022年11月に 長野支社から JR 東日本首都圏本部管轄下に移管され略号も 長ナノ から 都ナノ に変わったらしいのですが、現在のところ略号が書き換えられた車両は見たことがありません。

 

主にクハユニ併結列車運用に使われた飯田線 クモハ42009 (蔵出し画像)

 こちらは、飯田線を走ったクモハ42009 です。クモハ42は、京阪神間の電車化で製造された2扉車のモハ43グループの両運転台型電車です。1950年に他のモハ43グループと共に上京し横須賀線で使われますが、両運転台で定員が少なかったためか、70系が整備されるとすぐ横須賀線から離れ、伊東線で使われました。その後昭和30年代に宇部線飯田線に分かれて都落ちしました。若番車が宇部線に、それ以外が飯田線に移り、本車は飯田線に移った1両でした。

 飯田線移転後は豊橋区に配備され、幌があり、しかも両運で上り、下りどちら側にも使えることから、当初は主として快速を担当とする4両貫通運用で使われ、湘南色に塗られていたこともあったようです。このため、正面に快速表示器が残っていました。ただし、側面にあったはずの快速表示用のサボは撤去されています。私が撮影した1970年代末期には、主としてクハユニをつないだ McMcTpgc の3輌 40 番台運用、および快速運用の名残の4両貫通運用である 30番台運用に充当されていました。このため、下りより、あるいは中間に挟まれることが多く、パンタ側が先頭になった姿を見ることは稀でした。

 以下の写真はいずれも4両貫通運用下り側に連結されていた時の写真です。

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クモハ42009 (静トヨ) 1977.12 豊橋駅

 正面にしっかり幌をそろえていますが、幌枠は原型のものではありません。飯田線に移ってから交換されたものと思われます。幌枠に小窓が開いているのは、1950年代、静鉄の幌枠の特徴のようです。

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クモハ42009 (静トヨ) 1977.12 豊橋駅

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クモハ42009 (静トヨ) 1975.5 豊橋駅

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クモハ42009 (静トヨ) 1975.5 豊橋駅

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クモハ42009 (静トヨ) 1975.5 豊橋駅

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クモハ42009 (静トヨ) 1975.5 豊橋駅

 パンタグラフは原型の PS-11 を備えていました。

では、本車の車歴です。

1934.2.14 川崎車両製造 → 1934.6.30 使用開始 大ミハ → 1937.11.6 大アカ → (不明) 座席撤去 → 1948.12.8 座席整備 → 1950.3.29 更新修繕I 吹田工 → 1950.9.26 東チタ →  (1951.3頃?) 東イト →  1956.6.9 更新修繕II 豊川分工 → 1957.2 東チタ→ 1957.3 静トヨ → 1979.1.12 廃車 (静トヨ)

 本車は、1934年に川崎車輛で製造され、関西の名門宮原区に配備されました。1937年には流電の配備により急電運用のなかった明石区にうつります。戦時中は4扉化の計画が立てられましたが、本車は幸い実施されることなく、戦後まで2扉車として残ります。

 戦後、横須賀線用として上京しますが、すぐ伊東線に転じます。1957年に再度田町区に呼び戻されますが、すぐ飯田線都落ちします。一時的に田町区に戻ったのは、おそらく何らかの事務手続き上の必要があってのことでしょう。

 1957年に飯田線にやってきてからは、最も長い22年間を過ごしましたが、豊橋区への80系の導入を受けて1979年に廃車となりました。

東西でたらいまわし 御殿場線 元サロハ46 サハ78400 (蔵出し画像)

 以前やはり御殿場線のサロ45から改造されたサハ78030をご紹介しましたが、こちらは横須賀線のサロハ46から改造されたサハ78400です。サロハから改造されたため、サハ78030 とは異なり、窓配置が不規則になっているのが特徴です。さらに御殿場線転入に当たり、便所つきに改造され 400 を名乗っていました。改番前の車番は 78018 でした。因みに本来のサハ78からトイレ付に改造された車両は 450番台でした。

 

サハ78400 (静ヌマ)  1977.5 沼津機関区

 上は、2-4エンド側です。便所のない側です。

同上

 こちらは 1-3 エンド側。3エンド側に便所が設置されています。また増設扉にヘッダーが省略されているのが分かります。

同上

 第2エンド端。昭和6年川崎車両製造の銘板と、昭和29年 吹田工場での更新修繕II の銘板が見えます。

同上

 3エンド端の便所排水管。

同上

 1-3エンド側から見た床下です。向こうに便所用の水タンクが見えます。

同上

 やはり 1-3 エンド側床下中央部。

同上

 上に同じです。

本車の車歴です。

1931.3.26 川崎車輌製造 (サロハ46010) 東チタ → 1937.1.下旬 改造 大井工 (サロハ66010) →1945.3.14 改造 大井工機部 (サハ78018) ... (1947.3.1 現在 東モセ) → 1949.8.24 大アカ → 1950.9.28 大ヨト → 1951.4 更新修繕I 吹田工 → 1952.3.13 大ミハ → 1953.8.29 大ヨト → 1954.3.29 大ミハ 1954.12.27 更新修繕II 吹田工 → 1957.9.27 大タツ → 1960.10.2 大ヨト → 1961.11.15 東イケ → (千ツヌ) → 1963.11.2 東カマ → (千ツヌ) → 1965.5.19 東マト → 1968.3.10 静ヌマ → 1968.12.19 改造 浜松工 (78400) → 1979.9.28 ※ 廃車 (静ヌマ) ※ 10.11という資料もあり

 

 本車の車歴ですが、あちらこちを転々としており非常に多彩です。1931年に横須賀線用のサロハ46010として川崎車輌で製造されました。しかし、横須賀線にトイレがないとの乗客の苦情から1937年にトイレ付に改造され、サロハ66011に改番されます。さらに、横須賀線の2等車廃止決定を受け (後に撤回)、1945年に4扉化改造され (トイレも撤去)、63系に編入、サハ78018 に改番されました。この時横須賀線用のサロハ66は全車サハ78に改造され、さらに改造がサロ45に及んだところで途中で2等車廃止が撤回され、一部優等車のみ原形で残りました。

 改造直後の配置区は明確には分かりませんが、関西転属前は下十条にいたことが分かっていますので、おそらく京浜東北線用として下十条に配置されたものと推定されます。このサロハ66改造のサハ78の大半は1949~50年頃関西に転じ、本車も生まれ故郷に近い京阪神緩行線用として明石区に転じます。しかし車両の状態が悪かったのか、関西に来てからは頻繁に京阪神緩行線と城東・片町線の間を転々とします。1951年に更新修繕I を受けた後、早々に1954年に更新修繕II を受けているのも、車両の状態が悪かったのを裏付けているのではないかと推測されます。

 結局、1961年には関西を追い出され、再び東京に出戻りとなります。はっきり経歴が分からないところもありますが、どうやら東京地区でもたらいまわし状態となったようで、1968年の御殿場線電化を機に東京地区を追われ沼津区に移動します。78030もたらいまわしを経験していましたが、本車はそれを上回ります。

 沼津に来て再びトイレ付に改造されたこともあり、ようやくたらいまわし状態に終止符を打ちますが、御殿場線の新性能化で、1979年に廃車となりました。

 結局横須賀線には14年間、そして御殿場線に11年間いましたが、横須賀線時代に改造、改形式を経験していますので、最も安定していたのが御殿場線時代ということになります。

 なお、本車以外に、御殿場線には同じサロハ46から改造された サハ78015 がいたようですが、トイレ付きでなかったためか、1977.2.18に一足先に廃車され、私は写真を撮る機会がありませんでした。こちらの方は関西に転出することはなかったようですが、本車ほどではないにしろ結構たらいまわしにされていたようです。

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他の方が撮られた本車の写真が以下のサイトにあります。

・千ツヌ時代 (1963年)

blog.goo.ne.jp

御殿場線時代 (1975年)

www.localline.jpn.com

 またサハ78015の写真は以下にあります。

drfc-ob.com

kokuden.net

www.localline.jpn.com

 

中央線系統で運用される E233系 トップナンバー T1 編成

 こちらは元々中央線の201系置き換えのために登場した E233系のトップナンバー T1 編成です。2006年暮れから順次投入されました。JR 東日本ではいつの間にか最大勢力となりました。すでに登場以来 17年が経過しています。

 中央線高尾以西の山区間にも運用するため、当初から乗降用扉の開閉スイッチが設置されています。中央線系統では、10両編成のT編成、富士急行などに乗り入れるための、基本6両+付属4両のH編成、主に青梅、五日市線系統に運用される6 / 4両の青編成がありますが、本車は10両編成となっています。本編成は分割併合ができないことから運用区間は、10両にホーム長が対応している中央線東京-大月間と青梅線立川-青梅間となっています。

 写真は、東京方から...

クハ E233-1 (八トタ) 2023.4 高尾 (海側)

 上り寄りのクハです。

同上

同上 (山側)

 反対サイドです。

モハ E233-1 (海側)

 モハ E233 0番台はパンタを2丁つけています。

同上

同上 (山側)

反対サイドです。

モハ E232-1 (海側)

 パンタなし、補助電源装置 (SIV) 付電動車です。なお、落成当初 SIV 付は 0台と400代のみだったようですが、トイレ付改造工事後は、モハE232 は全車 SIV 付となっています。

同上

サハ E233-501 (海側)

 トイレ付改造車です。トイレ側です。

サハE233-501 (2023.7) (山側)

同 トイレ側床下

 また、クハ E232, 233  と共にコンプレッサー付となっています。2020年10月のトイレ付改造で、6号車から4号車にコンバートされています。

モハ E233-201 (海側)

 本車と、400台は、パンタが1丁のみです。

同上

モハ E232-201 (海側)

 2020年10月に補助電源付に改造されました。

サハ E233-1 (海側)

 トイレ、コンプレッサーなしサハです。

モハ E233-401 (海側)

同上

モハ E232-401 (海側)

同上

クハ E232-1 (海側)

 下りよりのクハです。

同上

同上 (山側)

反対サイドです。

 

本編成の車歴です。

2006.11.10 JR東日本新津車両製作所製造 八トタ → 現在に至る

 

 なお、系列全体としての車輛新製は、相鉄線乗り入れに備えて2019年に製造された埼京線向けの車輛が最後で、現在JR東日本の首都圏通勤用電車の新製は 2015年に登場した E235系に移っています(現状は、山手線用及び横須賀・総武線用のみです)。登場から13年間製造され続けたことになります。運用区間は、中央線系統、京浜東北線常磐緩行線系統、東海道湘南新宿・東北・高崎線系統、京葉線系等、横浜線埼京線系等、南武線に渡っており、富士山麓、りんかい、相鉄、東京メトロ千代田線、小田急にも乗り入れています。

 因みにあの国鉄103系は1963年から1984年までの21年間製造され続けました。209系は1993年から2005年までの12年間、E217系は、1994から1999年の5年間、E231系は2000年から2007年までの7年間でした。基本的に横須賀・総武線系等専用だったE217系の製造期間が短いのは当然ですが、E231系の製造期間が短いのは意外です。おそらく 2005年に起きた尼崎列車脱線事故で、209系以降の新系列電車の車体強度が弱すぎるのが問題となり、E233系以降では安全性対策として車体強度を強化していますので、その影響と思われます。