省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

御殿場線 サハ78030 (蔵出し画像)

 ここのところ身延線車両の写真のアップが続いていましたが、今回は御殿場線車輛です。こちらは変わり種のサハ78です。サハ78は本来63系の一員として製造されましたが、本車は32系の一員サロ45から改造されたサハ78です。関西では戦時中はモハ63系の直接投入がなかったため、43系からかなり多くのの車両の4扉化改造が行われました。関東では、唯一2扉車が投入されていた横須賀線のサロ、サロハ、クハから4扉化が行われました。とはいえ、横須賀線は、海軍幹部や皇族が通う重要路線のためか、改造は一部にとどまりました。優等車 (2等車) の全面廃止も行われなかったようです。

 本車はサロ45009から改造されたサハ78です。窓配置が独特な点がアクセントになっていました。

f:id:yasuo_ssi:20220113220509j:plain

サハ78030 (静ヌマ) 1-3位側

f:id:yasuo_ssi:20220113220542j:plain

サハ78030 (静ヌマ) 2-4位側

f:id:yasuo_ssi:20220116203856j:plain

サハ78030 (静ヌマ) ※1977.5 沼津駅 1-3位側

 上の写真をご覧いただくとよく分かりますが、サハ45008と同様、1位側の客用ドアの右端に手摺と、その下にステップがあるのが分かります。これは沼津区に転入後設けられたようで、以下のサイトにある本車の沼津区転入直後と思われるチョコレート色の写真には手すりとステップがありません。

kokuden.net

f:id:yasuo_ssi:20220113220738p:plain

サハ78030 床下

f:id:yasuo_ssi:20220113220819p:plain

サハ78030 床下

f:id:yasuo_ssi:20220113220908p:plain

サハ78030 床下

f:id:yasuo_ssi:20220113220944p:plain

サハ78030 床下

f:id:yasuo_ssi:20220113221027p:plain

サハ78030 床下

f:id:yasuo_ssi:20220113221111p:plain

サハ78030 床下

f:id:yasuo_ssi:20220113221150p:plain

サハ78030 床下

f:id:yasuo_ssi:20220113221227p:plain

サハ78030 床下

f:id:yasuo_ssi:20220113221303p:plain

サハ78030 床下

 最後に本車の車歴です。

1931.5.28 田中車輌製造 (サロ45009 東鉄配属[東チタ推定]) → 1944.7.15改造 (サハ78030 配置区不明) →(1947.3現在 東ミツ) → 1949.8.24 大アカ → 1950.6.16 更新修繕I 吹田工 1950.9.28 大ヨト → 1951.11.12 東カマ → 1954.7.23 更新修繕II 東急車両 → (1954.10現在 東カノ) → 1955.6 東シナ → 1955.11 東イケ(~1956.3現在 東イケ) → (1957.3現在 東シナ) →  1962.4.1 東モセ → 1963.3.30 東マト → 1967.12.26 静ヌマ → 1979.9.15 廃車 (静ヌマ) (撮影時 全検 51-9 大船工)

 本車は横須賀線電車化の際、モハ32と共に2等車(現在のグリーン車)として製造され、13年間横須賀線で活躍しました。なお、製造元の田中車輌製造所は現在の近畿車輛の前進で、戦後近鉄の子会社となったため近畿車輛に改名されました。ですので、元々生まれは関西ということです。しかし、資材不足で4扉車 (サハ78) の新規製造が困難なため4扉車に改造され、サハ78の追番を付されました。そのまま東ミツに配属されたのかどうかは分かりませんが、1947年の時点で東ミツにいてその後関西は大アカに移ります。吹田工場で更新修繕Iを受けた後大ヨトに移り、その後関東にもどり東カマ、そしておそらく更新修繕IIを機会に東カノに移っています(東カマから直接東カノへ移ったのかどうかは不明です)。さらに、山手線に転じ東シナ、東イケ、再度東シナ(東イケから東シナに戻った日付は不明です)、そして山手線の101系化で京浜東北線の東モセ、常磐線の東マトと転々と都心部線区内で転属を繰り返しました。1967年の御殿場線電化で沼津機関区に転じてからは、ようやくやや安住の地を得て、横須賀線色に塗られ、横須賀線時代に次ぐ12年間の余生を過ごしましたが、115系化によって廃車となりました。4扉化後、東京、大阪と転々としたのは、状態があまり良くなかったのか、それとも改造車だったため、現場で使いにくいと思われていたからでしょうか。それでも結果的に製造後48年と、比較的長寿を保ちました。

 なお写真は特記以外はいずれも1977.9沼津機関区です。