省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

サハ57を制御車化した高崎地区のクハ55431 - 蔵出し画像

 こちらは、高崎近郊で使われたクハ55431です。一見して分かるように特異な顔立ちをしていますが。これはもともと中間車(サハ57)を制御車化したためです。今もそうですが、大都市圏で使われた車両を地方に転出するときに、中間車の過剰と制御車不足が起こります。今、JR東日本などは、車両のコスト削減と短寿命化を進めていますので、今後はE217のように、他線区に転出せず20余年でそのまま寿命を終えるというケースも増えるかもしれません。しかし国鉄型では30-40年は使われるという前提で作られていますので、今日でも中間車の制御車化というのは頻繁に行われています。

 本車の正面の貫通扉は、客用貫通扉をそのまま転用しただけで極めて安直です。当時は、前面衝突事故から乗務員を守るために高運転台にするとか、衝突の衝撃を吸収するクラッシャブルゾーンを設けるというような考え方がありませんので、ともかく必要最小限の改造で制御車化する、という考え方だったようです。後に、サロ75, 85やサハ87が制御車化される際は、103系の高運転台車に準じたデザインの運転台が設けられましたが...

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クハ55431 (高シマ)
1975.10 高崎

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クハ55431 正面
(1975.10 新前橋)

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クハ55431 (1977.5 高崎)

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クハ55431 トイレ部分 (1977.5 高崎)

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クハ55431 室内 左: 運転台側  右: トイレ側
(1975.10 高崎)

 最後は本車の室内ですが、ニス仕上げの旧形国電が多い中にあって、本車は、なぜかクリーム色に塗装されていました。首都圏で使われた73系などの末期の旧形国電の室内の多くは、運転台同様、モスグリーン(本車では、運転台側の貫通扉の内部のみモスグリーンに塗られている)に塗られていることが多かったのですが、高崎地区の旧形国電で内部がペンキ塗装されている車両の多くはクリーム色でした。

 おそらく首都圏の旧形国電は、冷房装置がなく、夏は乗客が酷暑にさらされるため、せめて塗装だけでも涼やかに、ということでモスグリーンが多用されたのではないかと思います。どうもその元祖は、戦後の進駐軍専用車にあるらしいのですが、1950年代後半以降に製造された旧形全金属車や新性能車の国電もモスグリーンのメラミン化粧板が貼られていました。しかし、高崎地区は、蒸し暑い酷電ラッシュに長時間揺られることもなく、むしろ冬の寒さの方が問題になるので、温かみを感じるクリーム色を、ということだったのかもしれません。施行は大井工場なので、工場の違いによって色の違いが発生したわけではないはずです。

 因みに、新造無冷房車もあった113, 115系までは、内部はモスグリーンのメラミン化粧板が使われていましたが、100%冷房化された201系以降はクリームがかった白に代わっていますし、また冷房を搭載し室内がリニューアルされた115系等も白っぽい化粧板が変えられています。最後までモスグリーンの化粧板がみられたのは、私が見た範囲では、長野運転所のスカ色塗装を復活させた115系C1編成でした。かなり褪色が進みほとんど水色に近い色になっていましたが...

 おそらく本車は首都圏時代に既にモスグリーンに塗られていたので、新前橋に配置換えになった後の全般検査の際に、そのままクリームに塗り替えられたのではないかと推測します。

 なお、おそらく、クリーム色に塗られた高崎地区旧型国電の車内の写真はほとんど出ていないのではないかと思います。

 

では、本車の車歴です。

1941.9.27 新潟鉄工所製造 (サハ57034 東鉄配置) → (1947.3現在 東チタ) → (1954.11現在東マト) → 1960.3.21 大井工場 改造 (クハ55307) 東マト→ 1963.8.22 千ツヌ → 1964.11.11 東オメ → 1967.3.29 改造 大船工場 (クハ55431) 高シマ → 1978.6.28 廃車 (高シマ)

 元々サハ57は1933年に12両登場しているものの、その後しばらく製造されませんでした。しかし1939年以降、つまり国家総動員体制が敷かれてから大量に生産されました。つまり、工場等へ通う通勤客の急増に合わせて作られた車両と言えます。やがてそれは戦時設計である4扉の63系へとつながっていきますが、63系自体は戦時中は資材不足で量産がなかなかできず、また電装なしで「サモハ (付随車代用)」「クモハ (制御車代用)」として運用されたりしました。本格的に63系が作られるのは戦後になってからです。

 本車の当初配置区は不明ですが、1947年の東チタの配置は、横須賀線の連合軍専用車として使うためであったのではないかと推測します。米兵からはクロスシート車は対角の小さい日本人向けのため、足が延ばせないと不評だったといわれています。その後しばらく常磐線で使用され、そこで常磐線の朝夕の需要の落差に対応して分割併合運転を開始するためサハ57のクハ化の第1次車としてクハ化されました。このグループは、朝は編成の中間に連結し、日中のみ制御車として使うため、前面貫通路扉は、元の客用貫通路扉を流用し、幌枠付きのままクハ化したようです。

 その後しばらく常磐線でそのまま継続使用されたのち、津田沼を経て青梅線に移り、1967年の高崎ローカル転出の際トイレ付に改造されクハ55431となりました。おそらく長野原線(現吾妻線)の電化で使われることを前提に転出したのでトイレつきに改造されたのでしょう。他の旧型国電が1964年頃に新前橋に転入しているのに比べて本車はやや遅めに新前橋に来ています。この辺りが本車の室内がクリームに塗られていたゆえんではないでしょうか。