省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

運転台後部の窓が潰されていたのが特徴的な 身延線のクモハ51810 (蔵出し画像)

 こちらは、モハ51の第1次車、関東向けのモハ51008を低屋根化した車両です。1935年度に製造された第1次車 モハ51001~010の特徴は、半室運転台だったことですが、これは大阪に移った後更新修繕で全室運転台に改修されました。しかしこの車はその改修の際、1-3位側の運転台後部の窓が潰されて、ちょっと特異な姿になりました。

 同じように運転台後部の窓が潰された車両として、私は写真が撮れませんでしたが、岡山区にいたクモハ51001がいたようです。

 運行灯もHゴム化されていましたが、戸袋窓はオリジナルのままでした。また関西型通風器が維持されていたのも特徴です。

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クモハ51810 (静ヌマ) 1977.9 富士電車区

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クモハ51810 (静ヌマ) 1981.4 富士電車区

 2-4位側の乗務員室扉後部の窓も元々半室運転台の窓だったため、乗務員室扉側に寄っています。これは1次型クモハ51を種車にしたクモハ51804~810に共通する特徴です。

 

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クモハ51810 (静ヌマ) 1981.8 富士電車区

 新性能化で運用離脱後、西富士宮駅に留置中の姿です。窓から見えるシートの背の部分から、客室内はモスグリーンでペイント塗潰しになっていたことが分かります。これはおそらく、御殿場線から転用されたクモハ60が御殿場線時代からペイント塗潰しになっていたので、低屋根化後、それに合わせてペイント塗潰し化施行が行われたのではないかと推定されますが、どうも中途半端だったようで、クモハ51は若番ほど施行率が高く、番号が後に行くほどニス塗りが維持されていました。浜松工場で施行されたのか大船工場で施行されたのかは分かりません。

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クモハ51810 (静ヌマ) 1981.4 富士電車区

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クモハ51810 (静ヌマ) 1977.9 富士電車区

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クモハ51810 (静ヌマ) 1981 富士駅

 低屋根化されたパンタグラフ部分。パンタグラフは黒に塗られていましたが、錆のため分かりにくくなっています。

では、本車の車歴です。

川崎車輌製造 (51008 偶数向き) → 使用開始 1936.4 東ミツ → 1944.3.14 改造 大井工(41063) → 1950.5.22 大ミハ → 1951.10.5 座席整備&更新修繕I 吹田工  → 1952.2.27 改造 吹田工 (51008) → 1956.3.1 大タツ → 1957.6.17 更新修繕II 吹田工  → 1961.10.1 大アカ → 1970.2.3 静ヌマ → 1970.7.15 改造 浜松工 (51810) → 1981.12.19 廃車 (静ヌマ)

 本車は、1935年度後半に川崎車輌で製造されました。ということは、もともと関西生まれだったということです。戦時中に座席撤去を受けモハ41に編入され、戦後43系と交換で大阪に帰ります。そこでセミクロスシートに戻され、さらにギヤ比の変更を受けて、モハ51に復帰します。1956年の高槻電車区の開設で、そちらに移り、さらに3扉車明石区集中配備を受け移動と、大方の関東向き51と同様の経歴をたどって、1970年に万博を控えた103系の明石区への投入で身延線に転じました。

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