こちらは、宇部・小野田線で走っていたクモハ40です。宇部・小野田線と言えば、主として小野田線本山支線で2003年3月まで、当時国内最古の電車と言われて単行で走っていた両運転台車のクモハ42が有名ですが、両運転台の車両はほかにもクモハ40や12が在籍しており、これらが単行運用につくこともありましたし、他車と編成を組んで運用につくこともありました。旧型国電全盛時代は、クモハ42は、もちろん本山支線の運用につくこともありましたが、むしろ本線での運用が多く、クモハ40が本山支線運用に充てられることが多かったように思います。この車両も上の2枚は「長門本山ー宇部新川」のサボをつけています。
本日ご紹介するクモハ40023はこの写真を撮る以前には、東京の豊田電車区に配置され青梅線や五日市線の増結運用や下河原線に使われており、豊田区配置のクモハ40の中では最も若番でした。青梅線時代には、青梅鉄道公園に行った帰りにこの車両を見かけてこともありました。その後、本車ははるか西、宇部に配転となり、小雪の舞う中、この日、久しぶりの再会となりました。
最後に例によって本車の車歴です。
1934.3.19 汽車会社製造 東鉄配置 (モハ40103) → 1936.4.1 改番 (40023) → (1947.3.1現在 東イケ) → (1954.10.1/1956.3.1現在 東ミツ) → (1957.3.31現在 東カノ) → 1961.4.8 東オメ → 1971.2.1 西トタ → 1975.3 広ウヘ → 1981.6.4 廃車 (広ウヘ)
※最終全検 54-4 幡生工
本車は東鉄用として製造されたモハ40でした。大鉄向けモハ40とは引き通し線の位置が違ったため、当初は40100番台の番号を名乗っていましたが、間もなく大鉄向けモハ40の追番に改番されました。当初から山手線で使われていていたのかどうかは分かりませんが、1947年には池袋電車区にいました。その後中央線に転じています。1950年頃に山手線は17m車と、20m車は63系に統一されたようなのでその影響かと思われます。山手線は当時車両基地のスペースが狭く20m車への統一が困難だった一方で混雑が激しかったため17m車と4扉20m車に統一することで扉間隔をなるべく狭めるということが考えられていたのではないでしょうか。線区としての格も、市内電車の延長のような位置づけだったのではないかと考えられます。転じた中央線 (三鷹区) では、ある程度両運車の数がいたので、おそらく増結用に使われたのではないかと思います。その後、1956 ~ 7年の間にやはり三鷹区の国電用車両4扉車統一の影響で、中野区に転じ中央・総武緩行線へ移り、ついに製造後27年後の1961年には都心部の路線を追われ、まだ17m車の天下であった青梅線等に落ちていきます。その後はっきりした時期が鉄道雑誌等から探せなかったのですが、1975年3月31日時点では首都圏を遠く離れ、はるばる西の宇部電車区にいました。書類上の正式な転属年月日は分からなかったのですが、ネットの記事を見ると1975.3.3に豊田区から宇部区に回送されたようです。この時全検は49-11大井工となっていました。最後は6年余り宇部・小野田線で使われましたが、1981年、105系による新性能化で製造後47年にしてついに廃車となりました。長年首都圏の重要通勤線区の輸送という重責を担った車両でした。
青梅線で使われていた同僚のクモハ40は、青梅線の103系化で1977年に廃車になっていますので、西に落ち延びたおかげで多少永らえることができました。
なお、本車は1960年代以降存続したクモハ40の中では最も若番でしたが、その理由は関西向けの40001~19は出力強化でクモハ61に改造されたり、あるいは戦時中、収容人数を上げるため片運転台化のうえ43系との台車振替で51に編入されたり、戦災で廃車になったりで失われ、関東向けの40020~22は中間電動車化されモハ30に編入されたためです。
本車も中間電動車化される予定でしたが、地方転出時にはむしろ中間電動車は活用しにくいということで中止になりクモハ40のまま存続しました。おそらく20mの3扉車では、山手線などの特に混雑した線区では扉間隔が広くて17m車より使いにくい上、収容人数に比べ出力も小さいということもあったのではないかと思います。以前紹介したモハ30も首都圏では最終的にやや閑散な常磐線に集められ、その後新前橋と鳳に散っていきました。このあたり、17m車を中間電動車化したモハ10が36輛も改造され、1960年代に至っても山手線などで活用されたのとは対照的となりました。