省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

1979年8月28日 国鉄飯田線 伊那松島機関区の車輛運用

 暑い日が続きます。本日は8月28日ですが、44年前の本日撮った写真を紹介します。

 伊那松島機関区を訪問した際にたまたま撮っていた写真です。

1979/8/28 伊那松島機関区の車輛運用

 電車の 70番台運用と80番台運用は McTc の運用です。当時の伊那松島区にはトイレなしの Tc は 1輌のみ (クハ68042) でしたが、73運用に入っていました。

 一方、90番台運用は TpgcMc または MpgcTc の運用でした。この運用がかつて豊橋区が担当していた時代は、TpgcMcMc という編成でしたが、伊那松島区に移っては2輌で運用されていました。おそらく荷物を考慮してか、すべて出力の高い MT30 モーターを備えたMc で揃っています。といっても、当時はMT15モーターの車輛はあまり残っていませんでした。また Tpgc の定員の少ないのを考慮してか、クモハ61は全車 90番運用に投入されています。

 電気機関車はED62 1 と 5 が休車になっていますが、検査期限を延ばすための休車だったのではないかと思います。しかし、電機の運用が7本もあったなんて... 今では信じられません。

 ちょっと変なのはクモハユニ64 がなぜか通常の Mc の代行で 74番運用に就いています。クモハ51200 と 54112 が遊んでいるのに。あるいは走行距離調整の意味でそうしていたのかもしれません。

 因みにこの写真はモノクロで撮っていますが、掲示板はモスグリーン、そして動力車は黄色のカード、非動力車は白のカードだったように思います。また車号カードには運転台の向きや全室・半室運転台の違いが記されています。43015や50008は全室運転台に改造されていたことが伺えます。

 なお、当時の電車運用図表は以下のページをご覧ください。

yasuo-ssi.hatenablog.com

最後の営業用木造鋼体化車50系の一員 可部線 クハ16477 (蔵出し画像)

 今回の写真は、可部線のクハ16477です。先日解体されてしまったクモハ11117とともに可部線で働いていました。クハ16は17m車の制御車ですが、出自は様々で、0 番台が31系のオリジナルのクハ、100番台は30系モハ30を電装解除したグループでダブルルーフ屋根のまま、200番台は、100番台を更新修繕で切妻シングルルーフに改造したグループ、300番台は、モハ31を電装解除したもの、400番台は、木造車を鋼体化した50系の制御車で元クハ65でした。可部線はこの元50系が最後まで営業用に使われていた線区で、本車はその最後の1輌です。

 今日の可部線は、非電化の末端部こそ廃止されてしまいましたが、広島都市圏でもラッシュ時混雑の激しい有数の路線です。また一部廃止区間の再復活でも話題を呼ぶほどの重点線区となっていると聞きます。しかし、当時は、バスに押されて、日中は17m車のTcMcがのんびり走る、広島都市圏でも最も等閑視されていた路線でした。

 なお、可部線の車輛は電車にもかかわらず自動連結器を備えていたことが特徴ですが、実はTcとMcを結ぶ連結器の方は密着連結器のままでした。次位はクモハ12055でしたが、こちらの3-4位側連結器もおそらく密着連結器のままだっと思われます。

 この理由ですが、山陽本線非電化時代は、可部線は電化区間として孤立していましたので、幡生工場に入場する際は蒸機が長距離を牽引して回送する必要があり、McTcの先端のみそれに備えて自連化したものと推測されます。

クハ16477 (広ヒロ) 1975.8 横川駅

本車の車歴です。

1922年製造 (サハ33783) → 1928.10.1 改番 (サハ25094) → 1940.3.上旬 改造 大井工 (クハ65101) 千ツヌ → (1947.3.1 現在) 千ツヌ → 1953.6.1 改番 (クハ16477) 千ツヌ → 1963.3.31 広ヒロ → 1976.5.29 廃車 (広ヒロ)

 本車は、元々木造サハ25を鋼体化した50系の制御車クハ65101でした。1940年に改造後、そのまま津田沼区に配置され、1963年に当線に転入するまで津田沼区を動くことはなかったようです。山手線への103系の投入で、捻出された101系が総武緩行線に入ってくると広島に都落ちしてきて13年間を過ごしましたが、呉線へ中央線山スカモハ71が転入してきて、そこから捻出された73系によって置き換えられました。

 

 なお、上記写真も下記のように黄変していた写真を当ブログで紹介している拙作の黄変写真補正ツールを使って補正したものです。

オリジナル

身延線向きにライトを多数備えていた救援車 クエ28002 (蔵出し画像)

 今回紹介する車両は、沼津機関区にいた救援車クエ28002です。救援車とは、事故が発生した際に現場に駆けつけて復旧作業にあたる車輛です。室内には復旧用機材が備え付けられていました。かつては、どの車両基地にも救援車が1輌はありました。多くは営業用に使用されなくなった電車や客車を改造して、備えられていました。

 1980年代に従来の救援車が老朽化した際に、新たに新製された牽引車クモヤ143やクモヤ145が登場した際、救援車の機能も兼ねていたものもあったようですが、先日の記事で記したようにそもそも車輌基地における牽引車の需要もほとんどなくなってしまったためクモヤ143や145自体大半が淘汰されてしまったようです。さらに従来救援車が行っていた機能も、道路事情の改善でトラックに任されるようになり、今日では救援車自体見ることがなくなってしまいました。

 本車は、木造車を鋼体化したクハ16を改造して身延線用救援車として登場しました。当初は富士電車区に配置されましたが、1969年に車輌配置が沼津機関区に移ると、本車も沼津に移動しました。

クエ28002 (静ヌマ) 1977.5 沼津機関区

 身延線の狭隘な山間部路線に対応するため、たくさんのライトが設置される共に、側面から機材が取り出せない可能性を考慮して前面にも機材を出し入れする観音開きの扉が設けられているのが特徴です。この特徴は、飯田線用として豊橋区に配置されていたクエ28100も同様でした。

 また電源を取るために電動車でないにもかかわらずパンタグラフが設置されています。

クエ28002 (静ヌマ) 1977.9 沼津機関区

 後位にはオエを従えています。また上には架線がありません。

クエ28002 (静ヌマ) 1977.5 沼津機関区

 連結器は密練をつけていますが、自連のアダプターが付いています。DLかELで牽引することが前提されていたようです。

クエ28002 (静ヌマ) 1977.5 沼津機関区

 こちらは2-4位側です。こちらにも運転台が増設され、両運転台になっています。ただし4位側は当然ながら乗務員扉がありません。3位側には乗務員扉が増設されています。全検は 52-5 大船工となっていました。写真を撮ったときは全検直後で、塗装はピカピカでした。沼津では、ほとんど客車救援車と同等の扱いでした。しかし、おそらく富士電車区時代は、電車に連結して出動することが前提されていたと思われます。多分、沼津に移って運用上の扱いが変わったのではないでしょうか。

クエ28002 (静ヌマ) 1977.5 沼津機関区

クエ28002 (静ヌマ) 1977.9 沼津機関区

クエ28002 (静ヌマ) 1977.5 沼津機関区

クエ28002 (静ヌマ) 1977.5 沼津機関区

 以下は床下です。

クエ28002 (静ヌマ) 1977.5 沼津機関区

クエ28002 (静ヌマ) 1977.5 沼津機関区

 床下には予備のレールがぶら下がっていました。事故現場でレールが破断した時にその部分を溶接してつなぎ合わせるためでしょう。

クエ28002 (静ヌマ) 1977.5 沼津機関区

クエ28002 (静ヌマ) 1977.5 沼津機関区

クエ28002 (静ヌマ) 1977.5 沼津機関区

クエ28002 (静ヌマ) 1977.5 沼津機関区

クエ28002 (静ヌマ) 1977.5 沼津機関区

では本車の車歴です。

1922製造 (サハ33791) → 1928.10.1 改番 (サハ25101) → 1937.3.下旬 改造 大井工 (クハ65030) → (1947.3.1 現在 東カマ) → (?) 東ミツ → 1953.6.1 改番 (クロハ16800) → 1954.11 東オメ → 1957.2 東カマ → 1959.4 改番 (クハ16800) 東ヤコ →  東ヒナ(?) → 1963.1.23 静フシ → 1963.3.6 改造 浜松工 (クエ28002) → 1969.4.11 静ヌマ → 1984.6.28 廃車 (静ヌマ)

 本車は元々木造車を鋼体化した、50系の制御車クハ65030 として誕生しました。配置区は不明ですが、1947年には連合軍指定車として京浜東北線用として配置されていました。その後、中央線に転じ、1953年の改番ではクロハ16800 となりました。その後青梅線に転じますが再び京浜東北線に復帰します。しかし京浜東北線の2等車廃止で南武線に転じ、車番もクハ16800に改番されます。その後、1963年に身延線に転じた後、身延線用救援車として改造されました。なお鉄道誌の情報では東ヒナから静フシに転じたとありますが、ひょっとすると東ヒナは東ヤコの間違いではないかと疑っています。

 その後、富士電車区の電車配置の移動とともに沼津機関区に移り、1984年に廃車となりました。

 

関西国電始源の1輌 阪和線のクモハ60151

 いよいよ8月に突入しました。今年はとりわけ暑さがこたえますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 今回ご紹介する車両は阪和線のクモハ60151です。元々は、1933年に大阪の城東、阪和線国電が走り始めた時の1輌で、元番号はモハ41004でした。その右側はクモハ60059です。当時の阪和線の3扉車は関東の常磐線から移ってきた車輛が多かった中で数少ない由緒正しい生粋の関西の車輛でした。因みに当時の阪和線は、関西国電の始源から、最新の電車、さらにはDC特急まで多様な車両が運用され、さながら生きた鉄道博物館の様相を呈していました。

 本車は初配置から、出力強化後1961年まで28年の長きにわたって淀川電車区の主でした。しかし、淀川区への101系投入で明石に転出、さらに2年後には鳳に移動して、14年弱ほど阪和線で活躍しました。生涯大阪地域を離れずに活躍した車両です。

 最晩年は阪和線区間快速や普通として活躍しましたが、当時区間快速天王寺-鳳間を旧形国電が時速90km以上のスピードでかっ飛ばす様子は圧巻でした。もちろん電動機がMT-30, 40 の車両で揃っていたお陰でしょうが、旧形国電の健在ぶりを強く印象づける走りでした。当時、次に戦前型旧形国電が高速で走る区間は、飯田線大嵐-水窪間の大原トンネルだったように記憶していますが、そちらではせいぜい時速80km前後までで、85kmを超えることはなかったように思います。

 運転台の窓こそHゴム化され、関西型通風機を取り付けてはいましたが、最後まで関西を離れず、関西省電始元の姿を留めた貴重な存在でした。なお、戦前には京阪神間で運用されたことはないので、関西の戦前形国電の特徴であった列車種別を表示するための幕板のサボはありません。なお、以下の写真は本ブログの前身ブログに掲載していたものを再スキャン & 編集を行ったものです。

クモハ60151 (天オト) 1976. 3 鳳電車区日根野支区

では、本車の車歴です。

1932.12.7 汽車会社東京支店製造 (モハ41004) → 1933.1.12 使用開始 (大ヨト) → 1944.6.10 座席撤去 → 1948.12.6 座席整備 → 1951.12.6 更新修繕I (吹田工) → 1953.6.1 改番 (モハ60151) → 1957.12.28 更新修繕II (吹田工) → 1961.8.30 大アカ → 1963.8.23 天オト → 1977.2.14 廃車 (データは、鉄道史料保存会『関西国電50年』を参照)

 長らく大阪周辺で活躍した本車でしたが、生まれは東京です。因みに、大阪で最初に配置された40系電動車の内、大阪周辺で製造された車両は意外に少なく、モハ40018, 19(田中車輛) および、モハ41011(川崎車輌)のみでした。またこのグループのモハ41は全車奇数向き、クハ55は全車偶数向きで、モハ40はパンタグラフのある側が偶数向きでした。

 出力強化工事は、『国鉄電車ガイドブック旧性能電車編 (上)』によりますと、1951年に始まったそうなので、1951年の更新修繕の際に行われたものと思われます。ところで以前クモハ61004, 61005 を紹介した際に、出力強化された理由として、阪和形の社形国電に性能的に伍すためではないか、と申し上げましたが、本車は出力強化時に阪和線に配置されていません。もちろん当時モハ63などと混用されていましたが、やはり63と混用されていたクモハ31, 32 は出力強化工事など行われていません。ではなぜ本車は出力強化工事が行われたのでしょうか?

 実は1954年の淀川電車区の車両配置を見るとそのヒントがあります。当時の淀川電車区の車両配置は、モハ73, 35輌、モハ60,  7輌、モハ41, 2輌、モハ32, 1輌, モハ31, 12輌、クハ79, 14輌、クハ55, 13輌、クハ6230, 1輌、クハ6250, 2輌、サハ78, 12輌、クエ9100, 1輌という顔ぶれでした。

 クハ6230, 6250... ? そうです。阪和形社形電車が配置されていたのです。

 当時の淀川区の運用ははっきり分かりませんが、おそらく4扉車は城東線、3扉車は片町線を中心に運用されていたのではないでしょうか。そして阪和形は片町線用として配置されていたと推定されます。

 Wikipedia の記述を見ますと、阪和形の制御装置が国鉄制式のCS5, 10等に交換される工事が行われたのは、1950~51年に行われたようです。阪和形の淀川区転出はこの後に行われたと考えられます。また『関西国電50年』の記述では阪和形の淀川区転出は、1952年以降に関しては記載がありますが、それ以前に関しては記載がありません。しかし、1951年~1952年の初めにかけて電動車を含めて出入りがあった可能性があるのではないでしょうか。

 これらを考え併せると、あくまでも推測に過ぎませんが、更新修繕 & 主制御装置の更新を行った阪和形をある程度まとまった数で片町線で運用する計画があり、それと性能を合わせるために (阪和形は出力約150kwの東洋電機製ES-513-Aモーターを使用)、片町線用として想定されていた3扉車に対して出力強化工事が行われたものと思われます。

 しかし、阪和形は国鉄車に対して、自重が重かったこと(全金属製+魚腹台枠のため)、車体幅が若干広かったことで、片町線への転用は、電動車に関しては断念され、一部制御車の転用にとどまったのではないでしょうか。そのため阪和形の性能に合わせるための国鉄車の MT-30 (128kw) への換装は、関西ネイティブのモハ41の7両にとどまり、その後関東から転入したモハ41にまで及ぶことはなかったものと思われます。

 なお、『関西国電50年』を見ますと、最も遅くまで片町線で運用されていた阪和形は、1965年までいたようですが*1、最終的に全車阪和線にもどり、1966-68年に掛けて、関東の主として常磐線から転出してきたクモハ60や73に置き換えられる形で廃車となっていきました。

 本車は長らく淀川区にいた後、1961年に一時的に京阪神緩行線に転出しますが、1963年には阪和線に転出、元々想定されていたであろう、阪和形とともに働くことになります。そのまま大阪周辺を離れることなく、1977年に、関東からやってきた 103系に置き換えられる形で廃車となりました。

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なお、参考までに 1954.12.1 現在の淀川区の車両配置を記します。データ出典は当時の『鉄道ピクトリアル』誌です。

モハ73: 001~012, 013~019 (奇数), 020~029, 031~039 (奇数)

モハ60: 151~163 (奇数)

モハ41: 022, 127

モハ32 000

モハ31: 000~009, 011, 013

クハ79: 040, 045, 047, 049, 052, 054, 055, 056, 060, 066,  324~330 (偶数)

クハ55: 001, 004~007, 009, 012, 025, 034, 035, 052, 065, 071

クハ6230: 6231 (→25005)

クハ6250: 6258 (→25102), 6260 (→25110)

サハ78: 020, 211~214, 230~236

クエ9100: 9100

 なお、当時淀川区のモハ73 を見るとトップナンバー他初期番代が揃っていますが、実はこれらは吹田工場でモハ63から改造されています。つまり悪名高かったモハ63の73への改修は大阪から始まっていたのですね。これは編成の長かった関東では、63の改修は主として中間電動車であるモハ72化として行われる一方、モハ73への改修は編成の短い関西を中心に行われたためと思われます。従って、モハ73の付番は元の63の車番と全く関係がありません。しかし、これら 73 初期番代車の大半は、大阪環状線への101系の投入で1961年に上京します。東京のお下がりが大阪に回ってくることが多かった中で、珍しい逆パターンとなりました。但し73のトップナンバーは関東に行くことはなく、最後は大阪から広島地区に転じました。

*1:最後まで淀川にいた阪和形は下記の通りです。

クハ25103(←クハ6252←クタ7003) 1965.6.19 天オトへ転出
クハ25110(←クハ6260←クタ7011) 1965.6.19 天オトへ転出

甲府に姿を現した EF64キラー クモヤE492-1 / E493-1

 今回の車輛は JR東日本が2021年に新製した牽引車 クモヤE492-1, E493-1 です。かつて国鉄時代、牽引車はどの電車区にも少なくとも1輌、時に2, 3輌は配備されていました。というのは国鉄では車両は1輌単位で管理され、検査期限切れが近づいた車輛があると、それらを編成から外して、回送列車を組み工場に送っていました。その際その車両に制御車があるとは限りません。そのため工場に送る編成を率いる牽引車が必須で、回送列車の先頭もしくは両端に必ず制御車がつけられました。

 また、様々な編成から車両を抜いて、再編成して回送列車を仕立てることから、車両の偶数、奇数の向きを車両基地ごとにそろえることも重要でした。

 しかし、209系の登場以降、個々の車輛ごとに検査期限を管理するのではなく、編成単位でまとめて管理するようになってからは、編成のまま自力回送するようになったため、牽引車の出番が激減し、牽引車自体の数を減らしていきました。これは、車輛の耐久性を低くして車輛の製作コストを大幅に減らすことで可能になったと考えられます。209系登場時は、10年でスクラップすると言われました。実際には10年で廃車にしても減価償却上問題がないということだったようですが (とは言え、これら新系列の電動車は10~15年で機器の大幅更新を行っています。これらの更新を行わなければやはり寿命は10~15年ということでしょう)。1輌当たりの製作費が高ければ、車輛の入れ替えの手間を掛けても輌数を節約することが合理的ですが、低くなれば、車輛を多めに作って、車輛の管理コストを減らすことが合理的になります。

 これにより、検査期限切れの車輛を編成から抜いて回送列車を仕立てるいうことがほとんど行われなくなりましたので、車輛基地でも車輛の向きを必ずしもそろえなくともよくなりました。例えば相模線で使われた 205系 500番代は当初豊田電車区に配備されていました。そのため、他の201系などと向きをそろえるために橋本(下り)向きが偶数、茅ケ崎(上り)向きが奇数となっていました。しかし、のちに豊田区から国府津区に移動した際に、方向転換を行わなかったため、国府津区の中では東京方が偶数、国府津方が奇数と、他の東海道線の車輛とは向きが反対になってしまいましたが、そのまま使われました。なお余談ですが、E131系に代わってからは同区の他の車両と向きをそろえて投入されました。

 というわけでJR東日本では、長らく牽引車の新車は投入されず、1980年代に旧形牽引車を更新するために製作されたクモヤ143, 145も廃車になってしまいましたが、2021年に新たなコンセプトの牽引車が登場しました。それがE492, 493です。

 JR東日本は客車列車がほとんどなくなり、電気機関車はもっぱらレール、砕石輸送や、廃車予定車の回送列車の牽引が主になっていて活躍の場が狭まっていました。しかし、電車と操作体系の異なる機関車ですと運転士の養成コストが問題になり、かつ現在JR東日本が所有している電気機関車老朽化も進んでいます。

 このため、EF64 の置き換えに機関車を製造するのではなく、既存の電車や気動車と同じ操作体系で運転できる、事業用気動車や電車で置き換えることになったようです。このため今まで輌数を減らしていた牽引車でしたが、電気機関車が担っていた回送列車をけん引するために新たに製造された牽引車が本車というわけです。

 なお中央東線系統では、レール輸送については、数年前までそのための EF64 の運用がありましたが、現在はキヤE195に置き換えられ、なくなってしまいました。

 この日は甲府駅に姿を現していました。長野総合車両センターへ廃車予定車の回送を行った帰りだったのでしょうか、それとも試運転だったのでしょうか。

クモヤ E493-1 (東オク) 2023.5 甲府駅

クモヤ E493-1 2023.5 甲府駅

クモヤ E492-1 2023.5 甲府駅

クモヤ E492-1 / E493-1 2023.5 甲府駅

 所属は東オク (尾久車両センター) となっているようです。

 

本車の車歴です。

2021.2.9 新潟トランシス製造 → 2021.3.26 使用開始 東オク → (現在に至る)

 

 

代役でも八面六臂で活躍した飯田線 クモハ61004 (蔵出し画像)

 さて、本日は本ブログ開設3周年です。今回は飯田線のクモハ61004 (静ママ) をご紹介します。伊那松島機関区所属の電車は、おそらく飯田線北部で冬の寒さが厳しかったためか、運転台側に幌が付いた車輛はあまり好まれず、貫通路があっても幌を外し、前の貫通路扉を締め切りにして、隙間風が入らないようにしていた車両が多かったのですが、その中の唯一の例外がクモハ61の3輌です。

 クモハ61は、元々は40系の祖にして、関西国電始源の城東線、片町線用のモハ40の内、戦後も両運転台車として残った車両を阪和線に転出させた際に、強力なモーターを持った阪和モタ、モヨに性能的に追いつかせるため出力強化した形式です。

 全部で5輌の内、後半の 61003~5 が飯田線に転属しました。そのうち 61005 は奇妙な方向転換を行ったことは既に以前の記事で紹介いたしました。本車は、床下機器の大掛かりな配置換えを避けるためか、単純に方向転換のみが行われパンタグラフを奇数に向けて飯田線で使用されました。

 下り向きにも上り向きにも使えることから、幌が活用されました。ただ、下記の写真のように結構偶数 (下り) 向きに使われることが多かったように思われます。

クモハ61004 (静ママ) 1978.1 伊那松島機関区

クモハ61004 (静ママ) 1978.1 伊那松島機関区

クモハ61004 (静ママ) 1981.8 伊那松島機関区

 サボ受はクモハ51200と同様幕板にありましたが、それが災いしてか、私の写真ではサボが入っているものはありませんでした。大糸線に転出していた経歴があるわけでもなく、61005は窓下に設置されていたので、なぜ幕板に設置されていたのか謎です。

クモハ61004 (静ママ) 1976.5 豊橋駅

クモハ61004 (静ママ) 1977.7 伊那松島機関区

クモハ61004 (静ママ) 1977.12 浦川駅

 ところで、以下の3枚の写真、営業用に上り向きで使われている本車ですが、ちょっと変なことに気づきませんか?

クモハ61004 (静ママ) 1981.4 伊那松島駅

クモハ61004 (静ママ) 1981.4 伊那松島駅

クモハ61004 (静ママ) 1981.4 豊橋駅

 営業用に使われているにもかかわらずパンタグラフを降ろしています。故障しているのでしょうか? 正解は以下の写真をご覧ください。

クモハ61004 (静ママ) 1981.4 豊橋駅

 運転台のすぐ後ろに荷物という幕がかかって、荷物が積まれています。しかも、その後ろに変なものがかかっていますが... これは郵便の折り畳み版仕分け棚です。つまりクハユニ56 の代用として使われているのです。そのため、営業についているにもかかわらずパンタグラフを降ろして付随車代用として使われていたという訳です。17m車の時代はともかく、20m車になってからはロングシートの車輛は好まれなかった本線ですが、これでロングシートのクモハ61が重宝された理由が明らかになりました。つまりクハユニが検査や故障の際に代役として使うのにロングシートの方が便利なので好まれたという訳でした。なお、1978年秋の豊橋区への80形配置以前は、定員の少ないクハニ67900台とコンビを組むことが多かったようです。

 以下は半室運転台部分の客席との仕切り棒です。

クモハ61004 (静ママ) 1976.5 豊橋駅

では本車の車歴です。

1932.10.19 日本車輛製造 (モハ40004) → 1932.11.3 使用開始 大ヨト → 1943.12.24 座席撤去 → 1946.4.17 連合軍専用車指定 → 1948.3.20 連合軍専用車指定解除 → 1948.12.7 座席整備 → 1950.12.21 更新修繕I 吹田工 → 1951.11.11 天オト → 1953.6.1 改番 (モハ61004) → 1955.12.20 東ミツ → (1956) 東マト → 1956.12 東ヒナ → 1957.3.29 天オト → 1957.7.3 静フシ → 1957.9.5 更新修繕II 豊川分工 → 1957.9 静ママ → 1983.8.31 廃車 (静ママ)

※『関西国電50年』『鉄道ピクトリアル』車両の動きより

 すでに述べたように、関西国電の祖として1932年に日本車輛で製造され、城東線・片町線用として使われました。パンタグラフのある運転台が偶数向きでした。戦後、連合軍専用車指定を受けた後、座席整備を行い、1951年には阪和線に移ります。移って間もなく阪和社形電車に対抗できる性能を得るため出力強化工事を受けたはずですが、改番は1953年になりました。

 しかし、1955年には関東に出されてしまいます。とは言え、三鷹、松戸、東神奈川と同僚の61005とともにたらいまわしにされた挙句、鳳区に返されてしまいます。61005はかなり状態が悪かったという情報もあるので(「わが心の飯田線」サイトの情報)、おそらく本車も余り状態が良くなく、厄介者払いで関東に出されたのかもしれません。しかし、関東でも歓迎されなかったようです。鳳に戻ったものの、すぐ富士区に出されます。当時身延線では電動車の低屋根化工事が進捗していたので、おそらく、そのピンチヒッター名目で追い払われたのでしょう。結局豊川分工場で更新修繕II を受け飯田線に転出、そこで状態が安定したのか、飯田線が安住の地となりました。

 豊川分工場では当時、電動車の海側の電気機器を山側に移設する工事が更新修繕II とともに盛んに行われていましたが、本車はその手間をなるべく省くためか、方向転換で対応することとなりました。これによってパンタグラフの位置が、上り側 (奇数向き) に変わります。これが当時静鉄では電動車が偶数向きに揃っていたのを破る契機になったと思われます。

 なお、伊那松島では1957.6.8に社形のクハニ7200形4輌が廃車になっていましたので*1、ひょっとするとクハニ代用として使うことを想定して奇数向きの方向転換が容認された可能性もあります。

 伊那松島では上に述べたように重宝に使われ、旧形国電最後の日まで活躍しました。

 

 なお、以下の「わが心の飯田線」サイトに本車の三鷹時代 (1956.3.31撮影) の写真が掲載されています。この時はまだパンタ側が偶数向きだったことが分かります。またパンタグラフもオリジナルの PS-11 のままです。

kokuden.net

 

*1:「わが心の飯田線」サイトの記述による。

http://kokuden.net/mc53/sub.htm/sub1.html

富士フィルムカメラをエミュレートした新しい LUT

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 なお、ART および RawTherapee での DCP プロファイル利用法は以下をご覧ください。

yasuo-ssi.hatenablog.com

 darktable の場合は以下をご参照ください。DCP プロファイルは使えないので、cube ファイルを使います。

yasuo-ssi.hatenablog.com